玻璃の器
 

 生まれた時から入内するものとして育てられ、すでに東宮妃となっていた権大納言行忠の濃姫に比べると、澪姫は顔立ちは地味ながらも可愛らしげで、慎ましやかで大人しかった。まるで人形のような澪姫を見ると、濃姫のように権力者の娘でもない人が内裏でやっていけるのだろうかと、惟彰は案じた。
「…あの」
 まだ濃姫と夫婦の契りを交わしていなかった惟彰は、澪姫にも同じことを告げようと心に決めていた。寝所でゆらめく灯台の火に照らされた澪姫の儚げな姿を見ると、グッと言葉を詰まらせて惟彰は澪姫の前に座った。
「…あの、澪姫」
「はい」
 小さいながらも鈴の鳴るような涼やかな声で答えると、初めての夜にたおやかに打ち震えながら澪姫はおずおずと惟彰を見上げた。その顔をジッと見つめると、惟彰はふうと息をついて口をつぐんだ。何人もの妻を娶らなければならないのが自分の定めなら、せめて芳姫を初めての妻にしたい。そう考えていたのに、澪姫を前にすると決意がグラついた。
 この人は、私がいなければ、内裏にたった一人きりなのだ。
 惟彰が黙っていると、澪姫がふいに視線を伏せて小さな口を開いた。
「惟彰さま…いつぞや、父に小さな姫の話をされたことを、覚えておいででしょうか」
「え?」
 ドキンとして惟彰が澪姫を見ると、澪姫は頬を赤くして、緊張でかすかに震えながら話を続けた。
「その時、私も父から聞きました。大納言どのの一の姫君は、愛らしい大きな目と赤いふくよかな唇に、桜のかさねを身にまとってまるで春の精のようだったと。小さなおみ足で庭を軽やかに駆け回り…惟彰さまに抱き上げられてうとうとと眠るその姿は、まるで絵巻物に出てくる姫のようで…私は、かの姫君の話を聞くのが楽しみでございました」
 とぎれとぎれに話す澪姫の頬は活き活きと桃色に染まり、黒い濡れたような瞳がつややかに光り彩られていた。惟彰が澪姫の名を呼ぶと、澪姫はその場に手をついてゆったりと頭を下げた。
「さる女房から、まだ惟彰さまはかの姫の思い出を胸に抱いていらっしゃると、それに私より遥かに美しくご聡明なお方が、添臥として先に内裏に上がられている以上、私が妃になったとて惟彰さまのお目には止まるまいと聞きました。どうか…本願を叶えられますよう。私は、こうしてここに迎えていただけただけで、幸せでございますゆえ」
「澪姫」
 芳姫の話を澪姫の耳に入れたのは、濃姫の女房か。眉をひそめると、惟彰はそっと澪姫の小さな肩を抱きしめた。ビクンと震えた澪姫の体を抱きしめると、遠い日に芳姫を抱き上げた記憶がふと呼び覚まされた。
 今は考えるまい…芳姫、許して下さい。あなたのことを忘れた訳ではない…徐々に力を抜いて自分にもたれかかる澪姫の耳元で、惟彰は心配することは何もありませんと呟いた。惟彰のまだ少し華奢な少年らしい手が澪姫の手をつかんだ。澪姫が驚いて惟彰を見上げると、惟彰はその桃色の頬に自分の唇をそっと押しつけた。
「あなたは私の妃だ、澪姫。もっと胸を張ってもいいのですよ」
「惟彰さま」
 そのまま澪姫の体を抱くと、衾をめくって惟彰は中へ澪姫を導いた。芳姫、ごめんなさい…目を閉じて詫びると、惟彰は澪姫のつぶらな瞳を覗き込んで優しく笑った。

 
(c)渡辺キリ