玻璃の器
 

 惟彰の澪姫への後朝(きぬぎぬ)の歌は濃姫よりも早かったという噂がまことしやかに流れて、その話を聞いているはずなのに一向に感情をしめさない濃姫に、惟彰も戸惑いを見せていた。濃姫は少し不器用なだけなのよ。絢子から言われて何かと文や美しい絵巻物などを届けさせるものの、惟彰の碁や双六の相手はもっぱら澪姫だった。
 早くも二人目の妃を娶った惟彰からの便りは、これまで通り途絶えることなく続いていたものの、澪姫を迎え入れてから出す芳姫への文はさすがに後ろめたかったのか、これまでの実直で素直な内容よりも少しひねりを加えた歌を寄越すようになった。それを幼いながらも女心で敏感に感じ取ると、ムッとして芳姫は惟彰からの文に、私だけだと言ったあなたのお歌は、私の夢まぼろしの中でのできごとだったようねと書いて返した。
 ヤキモチを妬いた芳姫の機嫌を何とかしてもらえないかと、姫への贈り物として美しい螺鈿のついた櫛や見事な織りの袿と共に、馨君にも美しい音の笛が贈られてきた。東宮って、何か大変だな。考えながら、その笛をいつものお気に入りの木に上って吹いていると、ふいに優しげな声が馨君を呼んだ。
「おばあさま!」
 馨君が枝葉の間から見下ろすと、女房を従えた二条の方がにこやかに立っていた。兼長と絢子の母であり、前内大臣藤原兼芳の妻であった二条の方は、兼芳と共に出家して今は京の都から東へ外れた所に住んでいた。
「珍しいね、どうしたの」
 笛を持ったまま枝の上に立って馨君が尋ねると、二条の方は優しげな目を細めて馨君を見上げた。
「春宮さまから相談があると呼ばれたのよ。自分から伺いたいけど、なかなか内裏を出られないからと」
「何かあったの?」
 馨君が尋ねると、二条の方は笑いながら降りて来てちょうだいと頼んだ。
「首がくたびれてしまうわ。寝殿へ参りましょう。お菓子を持って来たから」
 二条の方の言葉に、馨君は笛を懐に入れてするすると木から降りた。二条の方は惟彰の祖母でもあり、滅多に会わないものの東宮惟彰とは時々文を交わしているようだった。
「春宮さまから、機嫌を損ねた芳姫に取りなしてほしいと頼まれたのよ」
 クスクスと笑いながら言うと、二条の方は馨君を見てあなたは相変わらずねえと付け加えた。馨君が肩をすくめると、二条の方は馨君の頭をなでた。
「春宮さまが芳姫を望むなら、思うようになさいませと伝えて来たわ。でも、芳姫はまだ九歳ですからね」
「大丈夫じゃないの。あいつ、ずっと姫のこと好きだもん」
 頭の後ろで腕を組んで馨君が言うと、二条の方は驚いてそうなの?と尋ねた。少し考えてから、馨君は答えた。
「すっごいちっちゃい時から、ずっとだよ。いっぺん、あいつが叔母上と一緒にウチに来た時から」
「え!? じゃあ…もう五年になるじゃないの!」
 指折り数えて二条の方が言うと、馨君はそんなになるかなあと言って笑った。春宮さまは一途なのねえ。感心したように言うと、芳姫と会ったことでもあったのかしらと首を傾げた。

 
(c)渡辺キリ