「会ったっていうか…一度だけ、几帳越しに対面したことはありますわ」
九歳になった芳姫は、馨君に比べるとどこかしとやかで大人っぽく、きちんと手をついて二条の方に挨拶をした。上座に座った二条の方がそうなの?と尋ねると、よほど気に入っているのか下座の一席に座って笛をなでていた馨君も同時にそうだったの?と顔を上げた。
「あんなに何度も文が来るから、顔ぐらい合わせたのかと思ってた」
「私は几帳の隙間からお姿を拝見いたしましたわよ。でも、向こうからはご覧になっていないはずですわ」
芳姫が答えると、この邸にいる間にあなたの噂でも耳にしたのでしょうと穏やかに言って、二条の方はふと部屋の隅に置きっぱなしにされていた惟彰からの贈り物を見た。
「おやおや、春宮さまからの賜り物を」
苦笑した二条の方を見上げると、だって…と呟いて姫は視線を伏せた。意地でも見まいとする姫を見ると、二条の方はふいに袖で口を押さえ声を上げて笑った。
「おばあさま」
拗ねたように芳姫が唇を尖らせると、ごめんなさいと笑いを堪えて二条の方は目を細めた。
「藤壺さまも、ちょうど主上の所へ上がった頃に似たような顔をしてたなあと思ってね」
「叔母上も?」
馨君と姫が同時に言って、二条の方は呉竹なら覚えてるでしょう?と尋ねた。廂に控えていた呉竹が、恐れながらと答えて笑った。
「藤壺さまが、まだ十四歳ぐらいの頃でございましたねえ。主上の添臥の姫は藤壺さまではございませんでしたので」
「それで、叔母上はどうお思いだったの? 主上の添臥は誰が努めたの?」
長いまつげをしばたかせて芳姫が言うと、呉竹は言葉を続けた。
「先々帝さまの五の宮さまがまず内裏へ入られて、慎ましやかでそれはお美しい姫君でしたので、藤壺さまは入内されてからもずっと、主上の気持ちがお離れあそばすのではないかと随分お悩みでございました」
「水良さまの母宮さまよ」
二条の方が付け加えると、眠そうにしていた馨君が視線を上げた。水良さまは絢子さまの御子さまじゃないの? 芳姫が尋ねると、二条の方は首をゆっくりと横に振った。
「水良さまの母宮さまは、水良さまをお生みになるとすぐに亡くなられたのよ」
「本当?」
「あの時も大変だったのよねえ。母宮さまのご後見をされていた太政大臣どのがご出家されるやいなや、白梅院さまや左大臣どのが水良さまを引き取りたいと申し出られて…けれどやはり主上が、五の宮さまの忘れ形見は手放したくないと仰られてね。それを藤壺さまが一人も二人も同じだからと仰って、水良さまを引き取られたのよ」
黙り込んだ馨君を優しげな眼差しで見つめて、二条の方は言った。そうだったの。芳姫が目を潤ませながら呟くと、ふと気づいて尋ねた。
「でも、叔母上さまはその宮姫さまのことは好きじゃなかったんでしょ?」
「初めはねえ。藤壺さまが内裏に入られて、一年ぐらいはずっと当たり障りのない話や軽い挨拶ぐらいしかできなかったみたいよ。五の宮さまは大人しい方だから、自分から藤壺さまの元を訪れたりはできなかったようだし」
「東宮妃時代は、よく五の宮さまにヤキモチを妬いて、お忍びで三条邸へお戻りになられましたねえ。女車で女房と従者を一人ずつつけて。主上にバレはしないかと呉竹はヒヤヒヤいたしました」
「叱り飛ばして戻しても、また戻ってくるだろうし。藤壺さまのご気性ではねえ…そのうち、内裏で庚申(こうしん)待ちの五の宮さまと鉢合わせになったことがあって、藤壺さまは意地でも口をきかないと黙っていたらしいの」
「それで、どうしたの?」
馨君が尋ねると、二条の方はふふっと笑った。
「そうしたら、五の宮さまが真っ赤な顔をされてね、主上から…当時は東宮さまだわね。東宮さまから絢子さまのお話は伺っております。とても愛らしくて、ハキハキとした口調でいろんなお話をして下さって、頭がよくて活き活きとした美しい方だと。だから、私もお話しできるのを楽しみにしておりました、と。それを聞いてね」
「き…聞いて?」
姫が身を乗り出して尋ねると、二条の方と呉竹は目を合わせてホホホと声を上げて笑った。
「負けた!とお思いになられたそうよ。藤壺さまは、主上から五の宮さまの話など、一度も自分から聞いたこともなかったし、主上も気を使って藤壺さまには他の妃の話をしなかったそうなのよ」
ポカンとした芳姫を見て、まだ分からないかしらねえと付け加えて二条の方はクスクスと笑った。ひとしきり笑ってからふいに真顔になると、二条の方はこれからもと呟いて目を伏せた。
「これからも、きっと春宮さまは大勢の妃を娶らねばなりません。それがお嫌なら、姫を他へ嫁がせるよう兼長どのには私から伝えましょう」
「おばあさま。私…」
「懐を深く、他の妃とも上手くやっていくだけの度量を持てるよう、いつも穏やかな心を持ちなさい。春宮さまのお立場も、分かっておあげなさいな」
柔らかな口調で言うと、二条の方は難しいことだけれどと呟いた。まだ眉をひそめて目を伏せている芳姫を横目で見ると、懐の笛をなでて馨君はため息をついた。
|