玻璃の器
 

 惟彰が行けば騒ぎになるだろうという主上の配慮で、東宮の名代として祝いを持って三条邸を訪れた水良は、一通りの挨拶を済ませた後、馨君を探して歩いていた。先導していた女房ともいつの間にかはぐれて、酒の匂いと野卑な猥談をしている殿上人たちの間を縫って渡殿まで来て水良はようやく息をついた。
 すっごい酒くさ。
 ここにいるだけで酔いそう。今日は、芳姫の所に顔を出すのはまずいかな…若葉でも探そうか。考えながら寝殿に向かうと、白い衣がふわりと御簾の内へ消えて、水良は眉をひそめた。
 誰だろう。気分でも悪くなったのかな。
 大きな音を立てないように静かに歩いて、二人が消えた御簾の辺りまで来て水良は立ち止まった。大丈夫ですか、馨君。柾目の密やかな声が響いた。何だ、飲み過ぎたのは馨君か。声をかけようと顔を出して、水良は息をひそめた。
 柾目の手が、そろりと馨君の額に触れ、そのままつつっと頬に下りた。仕方のない人だ。含み笑いをもらして、柾目は身を屈めた。酔いつぶれて床に転がされた馨君は、冠を落として息を浅く吐いていた。真っ赤になった馨君の顔を見て笑うと、柾目がそのまま熱い手をつかんで床に押しつけた。
「馨君」
 低い声は、闇にしっとりと広がっていった。
 唇が触れるか触れないかという瞬間、水良が足音を鳴らして御簾の中に踏み込んだ。バサリと御簾の端が水良の手からこぼれて揺れた。柾目どの。水良の声はまだ少年らしい中音域で、柾目が驚いて振り返ると、水良はスタスタと二人に近づいて柾目の肩を強くつかんだ。
「今なら、俺の胸の内に納めよう…柾目どの」
「…私は馨君が酔いつぶれたから、介抱していただけですよ?」
「女房も呼ばずにか。いいから行け」
 水良の声がわずかに震えていた。真顔で水良を見上げると、柾目は立ち上がった。柾目は水良よりも背が頭半分高く、年齢も十歳年上だった。立派な男公達姿の柾目を水良がにらみ上げると、柾目はフッと小さく笑って優雅な仕草で扇をパチリと閉じて胸元に挿した。
「女房どの! 誰か! 馨君がお休みになられると仰っておいでだ!」
 御簾から廂に出ると、よく通る声で柾目が女房を呼んだ。そのままヒタヒタと小さな足音を立てて行ってしまった柾目を目で追うと、その音が聞こえなくなってから水良はその場に崩れるように座り込んだ。
 …まだ胸がドキドキいってる。
 まるで自分が酒を飲んだかのように、はちきれそうなほど鼓動が高鳴っていた。はあと大きく息を吐いて、傍らで何も気づかずにすうすうと寝息を立てている馨君を見ると、水良はまたはああと深いため息をついてその場に突っ伏した。
 何なんだ、この無防備さは。
 自分の容貌が見目麗しく、他よりも…なまじな姫よりも優れているっていうことに、気づいてないのか?
 これじゃ、宴のたびに後ろをついて回らなきゃいけないじゃないか。
「馨君さま?」
 柾目が呼んだのか女房が二人、御簾の外から声をかけた。それに気づいて、水良は身を起こしてここだと答え、床に飛んだ馨君の冠をそっと直した。このまま起こさないようここに寝所を整えて馨君を休ませ、必ず誰かついているようにと頼むと、水良は眠り込んだ馨君から視線をそらして御簾の外へ出て行った。

 
(c)渡辺キリ