玻璃の器
 

 目が覚めると、格子が上がっていた。
 夕べの内に積もった雪が、光を照り返していた。室内はかなり明るくて、馨君が起き上がって眩しげに几帳の向こうを覗くと、上げさせた御簾の下、柱にもたれて水良が座っていた。驚いて馨君が名前を呼ぶと、ふてくされたような表情で水良は黙ったまま馨君を見た。
「水良、泊まったのか? 夕べは会えなかったけど」
「酔いつぶれてたからな。馬鹿正直に勧められるまま酒飲むんじゃねえよ」
 刺々しい言い方に、馨君は怪訝そうに眉を寄せた。それはいつも機嫌よく笑っている水良らしくない口調で、馨君が返事もできずに衾から這い出してそのまま火桶(ひおけ)の前に座ると、水良は馨君の方に向き直ってあぐらを組んだ。
「朝餉は…」
「食べたよ。今、何刻だと思ってるんだよ。兼長どのはもう参内したぞ」
「嘘! やばっ!!」
 あわてて立ち上がった馨君を見て、水良は呆れたようにお前は物忌みということになってるよと言った。え、ホントに? 馨君がホッとしてそこに座り込むと、水良は何か言いたげに口を開き、また閉じた。水良? なぜ機嫌が悪いのかも分からずに馨君が首を傾げると、水良はため息をついてから答えた。
「馨君、俺」
「?」
「今年中に元服するよ。決めた。もう十二歳だし、元服してもおかしくはないだろう」
「ええ!?」
 馨君が驚いて声を上げると、それに気づいたのか隣の間に控えていた女房が廂からやってきて二人に声をかけた。
「馨君さま、水良さま、白湯をお持ちいたしましょうか?」
「頼む。たっぷり持ってきてやってくれ」
 馨君の代わりに水良が答えた。まだ驚いている馨君の前で、水良は冷たくなった手をこすり合わせた。
「…こっちに来て、火に当たったら?」
「いい」
「水良…元服を嫌がってたのに」
「嫌だった訳じゃない。面倒だなと思ってただけ」
 そう答えると、白湯を持って来た若葉に気づいて水良は顔を上げた。まあ水良さま、お寒いでしょう。そう言った若葉に、ムッとして水良は答えた。
「寒くない」
「まだ、拗ねられておいでなんですか? あんまり童っぽいお振る舞いをなさっていると、元服も先延ばしにされますわよ」
「若葉、話聞いたの?」
 驚いて馨君が尋ねると、若葉は馨君の前に朝食の膳を置いた。あんまり食欲ないんだけど。まだ酒臭い自分の息を感じながら馨君が言うと、若葉は呆れたように水良のそばに白湯を入れた提子と杯を置いて答えた。
「馨君さまがぐっすりお休みになられている時に、弟宮さまはここで朝餉を召し上がられたので、その時に伺いました。いくら芳姫さまの御裳着祝いの宴とはいえ、少し飲み過ぎですわよ」
「…ごめん」
 ひょっとして、何か水良に迷惑でもかけたんだろうか。まだそっぽを向いている水良を見て、馨君はふうと小さく息をついた。ここで朝餉も食べてたのか…気づかなかった。あっさりとした湯漬けの朝食をゆっくりと摂っていた馨君は、若葉以外の女房を下がらせてから尋ねた。
「じゃあ…やっぱり妃を取るのか? あの…もう、文を交わした姫が…」
 胸がしめつけられるように苦しくて、馨君が言葉を選びながら尋ねると、水良は赤くなってそんな姫いないよと答えた。筒井筒(つついづつ)でもあるまいし。ボソリと言って、それから水良は白湯を口に含んだ。
「兄上と宣耀殿どのの例もあるし、元服すれば即、妃を娶らねばということもないだろ。とにかく、芳姫の入内が終わったら父上に申し上げるよ」
 そう言って、水良はようやくジッと馨君を見つめた。冠を飛ばして髻を露にした馨君と、闇の中に浮いた柾目の白い直衣姿を思い出した。今までは一度も気にならなかった自分の総角姿が、やけに子供っぽく感じた。柾目を遮る強い手が欲しいと思った。
 まさか、自分が原因だなんて、思ってもいないのだろうな。
 呑気に湯漬けをかき込んで、ほうっと息をついた馨君を盗み見ると、水良はフッと鼻で息をついた。どっちが子供だよ。杯に残っていた白湯を飲み干すと、若葉が火桶を挟んで馨君の向かいにしつらえた円座に移って、水良は火桶に手をかざした。

 
(c)渡辺キリ