玻璃の器
 

 水良が内裏へ戻ってすぐ、芳姫の入内の日が決まった。
 夜もふけた頃、女御入内にも見劣りしないほどの綺羅綺羅しい入内行列が内裏まで続いた。兼長邸の内でも特に見目麗しく気の利いた明るい性格の女房たちが選ばれ、行列となって入内に華を添えていた。松明を持つ公卿や殿上人たちが続いて、付き添いである母北の方と共に唐車に乗った芳姫が内裏へと入ると、常よりもさらに華々しい雰囲気が辺りを包んだ。主上や公卿たちからの祝いの品々も多く届けられ、一時、それを運ぶ人たちが入り交じり騒然となった。
 赤色の唐衣に裏濃蘇芳の五衣、紅の袴に羅の裳を身につけた芳姫は、女房たちと共に梨壺の一角に入った。
 その日、朝からずっと緊張した面持ちで待っていた惟彰は、華奢な肩を震わせて平伏している芳姫の姿を見て息を飲んだ。幼い頃、会ったことがあるものの後は文ばかりで、姿を見たのは三条邸へ馬で駆けつけた時以来だった。
「…芳姫」
 惟彰が呼ぶと、顔を伏せて床に手をついていた芳姫はほんの少しだけ身を起こした。その肩にそっと手を置いて、そのいい香りの薫物に陶然としながら惟彰は囁いた。
「遠い日、母上が三条邸へ里下がりをしたその日に、私はあなたを見かけた…あなたはまるで春の精のように、赤い頬をしていましたね。芳姫、あの時から、私はあなたにずっと恋をしていたのです」
「…恐れ多いことでございますわ、春宮さま」
 高い声がかすかに震えていた。その体を覆うように抱きしめると、惟彰はその長く豊かな髪をそろそろとなでた。芳姫。そのまま何度も髪をなでると、惟彰はそっとうつむいた芳姫の頬に触れ、いたずらっぽく笑ってよく顔を見せて下さいと呟いた。
「明かりの方へ」
 惟彰の声に、芳姫が顔を上げた。涼やかな冴えた目を長いまつげが彩って、何度か瞬いた。ふくよかな唇は馨君に少し似ていた。けれど…馨君の全体的にふっくらとした愛らしさに比べると、芳姫の美しさは大人びて冴え冴えとしていた。惟彰が驚いて息を飲むと、その表情に気づいて芳姫は怪訝そうな色を浮かべた。
「春宮さま?」
 尋ねる顔に、幼い頃に見た芳姫の面影はなかった。それでは、あの姫は…驚きのあまり黙り込んだ惟彰は、ジッと芳姫を見つめたままの自分に気づいてあわてて芳姫の頬を左手で包んだ。
 あの、桜のかさねを身につけた幼い姫は、馨君だったのか…?
 何の事情で、あの時、あのような格好をしていたのか分からないが。考えて、それからふいに母藤壺の言っていた話を思い出して、惟彰は思わず吹き出しそうになった。
 芳姫さまはあなたに会いたい一心で、男君の姿で現れたのよ。
 それはそれは可愛らしい姫君だったわ。そう言って、大笑いしていたっけ。どこで姫君と若君が入れ替わったのだろう。それでは…私がずっと恋いこがれていたのは…馨君、その人だったのか。
 道理であの日の姫と似ているはずだ…何と言っても本人なのだから。微妙な表情をしている惟彰を見て不安になったのか、芳姫は惟彰に抱かれていた身を起こした。
「あのう、春宮さま? あの…ひょっとして、お噂を耳になさったんでしょうか」
「え?」
 惟彰が改まった表情で尋ね返すと、芳姫はもじもじしながら口を開いた。
「あの…私がおとどのおじいさまにそっくりだっていう噂でございます。春宮さまはご存じないかもしれませんが、おとどのおじいさまは、それはもうこんな曲がったお鼻をしておいでで、お酒も飲んでいらしてないのに鼻の先がちょんと赤くていらしたのですわ。だから、あの…それを思い出されたのかしらと」
 真っ赤になって目を伏せた芳姫を見ると、惟彰は思わず目を細めて笑った。何てお可愛らしいことを仰るのだろう、この姫は。そうだ…。袖で鼻を隠した芳姫を見ると、惟彰はその手を優しくつかんでもう片方の手で包んだ。
 芳姫がもし、かの日に出会った姫君と違う方でも…ずっと文を交わしていたのは、確かに芳姫なのだ。
 こうして芳姫を私の元へ迎え入れることに、何の支障があるだろう?
「いえ…いいえ、芳姫。何でもないのです」
 そう言って笑うと、惟彰はそっと芳姫の額を吸った。私の妹姫をよろしく頼む。花が咲くように笑っていた馨君が、一瞬、頭をよぎった。そうだ、この姫はかの君の妹姫なのだ。真っ赤になってまた俯いてしまった芳姫を見ると、惟彰は一生あなたを大切にしますと囁いた。

 
(c)渡辺キリ