玻璃の器
 

   4

 入内前に不安がる様子を見ていた馨君は、芳姫のいる梨壺へ足繁く通った。
 その日も芳姫の入内準備で滞りがちだった宮中での仕事を片づけ、日も落ちてから馨君はようやく梨壺に近い嘉陽門をくぐった。大人しく座ってくれているといいけど。考えながら歩いて、馨君は梨壺の女房に芳姫への目通りを頼んだ。
「兄上!」
 御簾向こうの簀子に馨君が立った途端、中から芳姫の声が響いた。あちゃあ、家にいた時と同じじゃないか、それじゃ。御簾越しに頭を抱えた馨君にも構わず、さっきまで単衣に袴姿で猫を追いかけていた芳姫が、肩ではあはあと息をしながら笑った。
「梨壺さまには、ご機嫌麗しゅう」
 わざと厳めしい顔を作って馨君が平伏すると、厭味な兄上ねと唇を尖らせて芳姫は御簾の内で高麗縁に座った。厭味っていうか。円座に座って馨君は尋ねた。
「梨壺さま、内裏での生活はいかがでございますか。もう慣れましたか?」
 他に内裏の女房もいる手前、妹とはいえ東宮妃である芳姫に敬語で話すと、馨君は内裏の女房が持ってきた白湯の杯を取った。仕事を終えてすぐに梨壺へ向かったから、喉がカラカラだった。一気にそれを飲んだ馨君を見て、それから芳姫はにこやかに口を開いた。
「主上の御方さまたちがとてもよくして下さるので、何の心配もなく上手くやっておりますわ。父上さまにも兄上さまにも様子を見にきていただいてるので…私は幸せ者でございます」
「姫さまブリッコはやめろよ、気持ち悪いから」
「もう、どっちなのよ」
 そう言って芳姫が笑うと、馨君も声を上げて笑った。兼長邸から芳姫についてきた女房は慣れているので一緒に笑っているが、内裏で新しく付いた女房は、芳姫の快活さにまだついていけないようだった。姫さま、返事は逢坂がいたしましょう。二人の様子を見て、薹の立った女房が御簾内で囁いた。
「いいのよ、逢坂。ありがとう。小霧と竜田以外は下がってちょうだい」
 にこにこと笑いながら芳姫が言うと、他の女房たちは自分の局に下がれるとホッとしながら、それをおくびにも出さずに優雅に御簾内から出ていった。残された馨君が、兼長邸から世話になっている女房の小霧と竜田にねぎらいの声をかけた。
「二人とも、いつも姫の世話をしてくれてありがとう。内裏では気苦労も多いが、他のみなにもあまり気を張り過ぎないようにしてほしいと伝えてくれ。小霧、熾森にみなへの賜り物を渡してあるから、後で受け取ってみなに渡して」
 馨君が言うと、分かりました、ありがとうございますと言って小霧は頭を下げた。さっきまでにこにこと笑っていた芳姫が、急に脇息にもたれて大きな息をついた。大丈夫? 馨君があわてて尋ねると、芳姫はもうクタクタと言って肩をもむ真似をした。
「あの逢坂っていう女房、ここに来るまでは他の御方に仕えていたらしいんだけど、もうすっごく気が抜けないの。控えめな人だなって最初は思ってたんだけど、要所要所でチクッと来るのよね…」
「お前のおてんばが過ぎるからじゃないのか? そんな格好で猫を追っかけ回してる時に惟彰さまが来たらと思うと、ヒヤヒヤしてるんだろう」
 呆れたように馨君が言うと、逢坂さまは内裏でも相当やり手の女房らしいですからと竜田が代わりに答えた。竜田は小霧よりも明るく率直で活発な性格をしていた。
「芳姫さまの教育係でも密かに仰せつかっているのかもしれませんわ。逢坂さまは歌も楽もお上手だそうですから」
「そうなんだ…あ、惟彰さまで思い出したけど、芳姫、惟彰さまとは上手くやってる?」
 馨君が尋ねると、芳姫は耳まで真っ赤になった。嫌だわ、兄上ったら。袖で口元を隠した芳姫を見ると、竜田と小霧がニヤニヤと笑った。
「馨君さまはまだそのようなことに興味がおありでないかと思っておりましたけれど、そうでもございませんのね」
 耳年増の小霧が代わりに答えると、馨君が何が?と尋ねた。まるで子供のような顔をしている馨君を見ると、芳姫と女房たちは顔を見合わせた。何がって。顔を赤くしてモジモジしている竜田を見ると、芳姫はあのねと言って身を乗り出した。
「兄上、前々から聞いてみたかったんだけど」
「何?」
「兄上…どうすれば赤子が授かるのか、知ってるわよね?」
 芳姫が尋ねると、袖で顔を隠した竜田が、嫌だあ姫さま!と声を上げた。興味津々といった表情で見る竜田と小霧を御簾越しに見ると、馨君は思わず引いてしどろもどろに答えた。
「しっ! …知らないことはないけれど」
「詳しく、具体的に?」
「そ…そんなこと、小霧や竜田の前では」
 耳まで真っ赤になって小さくなった馨君を見ると、芳姫はお願いちょっと下がっててと二人に言った。小霧と竜田が出ていくと、御簾に寄って芳姫はちょいちょいと馨君を手招いた。
「…いい? 知らないと恥かくのは兄上なんだからね」
「だからって…お前から聞かなくたって」
「私から言わなくて、他に誰から聞くの! 父上がいい加減に縁談を進めたいと仰っておいでだったけど、これじゃあいつまでたっても無理だわ」
「縁談? ホントに?」
 馨君がきょとんとした顔で御簾向こうの芳姫に囁くと、芳姫はその表情を見てため息をついた。どれだけ知ってるのか言ってみて? 芳姫が真顔で尋ねると、馨君はしどろもどろになって答えた。
「あのう…だから、寝るんだろ。夜」
「それで?」
「それでって…それで」
「分かってる? …て、…のよ?」
「えっ?」
 絶え入りそうなほど真っ赤になって縮こまっている馨君に、小声でボソボソと具体的に話すと、芳姫は全くもう…と言葉を付け加えた。それで、…て、…するの。さらに言った芳姫に、嘘!!と思わず叫ぶと、馨君はペタンと床に手をついた。
「全く、若葉や呉竹は何してるのかしらね。あの人たち、いつまでも兄上を子供だと思ってる所があるから」
 あまりの衝撃に言葉をなくした馨君に、芳姫は呆れたように言って脇息まで戻った。梨壺さま、侍従の君さま、春宮さまがお越しでございます。内裏の女房がふいに訪れて、二人に声をかけた。どうぞお通しして下さいませ。芳姫が言うと、次の間に控えていた小霧と竜田が慣れたように芳姫に袿をはおらせ、扇を差し出した。
「馨君がいらしてると聞いたんだけど」
 声をかけながらにこやかに話しかけた惟彰に、今すぐに座をお作りいたしますと小霧が立ち上がった。さっきまで脱力していた馨君は、惟彰を見上げてこれ以上はないぐらい真っ赤になった。やっぱりお美しい顔立ちをしていらっしゃるな…と馨君の大きな目にみとれた惟彰に気づいて、馨君は平伏しながらもごもごと言った。
「も、申し訳ありませんが、私はすぐに中務へ戻らねばなりません。惟彰さま、どうぞ梨壺さまと、ごゆるりと過ごされますよう…」
 そう言って立ち上がると、御簾の中にも明日また来ますゆえと声をかけて馨君はそそくさと立ち去った。どうしたんだ、馨君は。あわて過ぎて今にも転びそうな馨君の後ろ姿を眺めると、惟彰が芳姫に尋ねた。
「何の話をしていたの?」
「ヒタキの巣作りの話をしていたのですわ、春宮さま」
 肩をすくめて芳姫が言うと、気分が優れなかったのかもしれないと惟彰は馨君が行ってしまった方を振り向いた。

 
(c)渡辺キリ