玻璃の器
 

 あまりの衝撃にふらふらになって三条邸へ戻ると、馨君は夕食もそこそこに床に入った。
「具合でも悪いんですか? 前みたいに寝込む前に仰って下さいよ」
 灯台の火を一つだけ残すと、大丈夫という馨君の返事にホッとして若葉は御簾から出ていった。衾をかぶって目を閉じてもなかなか寝つけなくて、薄暗がりの中で目を開いて馨君はふうと息をついた。それから横を向いて枕にこめかみを押しつけると、くーっと身悶えする。
 梨壺で芳姫に聞いた話は、これまでにも女房の噂話や時の右衛門佐のような仲間たちが話していたけれど意味が分からなかった会話の間を綺麗につないだ。衾にもぐってカアッと赤くなると、自分の体すらまるで別の人間の体のような気がして馨君は息をひそめた。
 芳姫がそれを知っているということは…当然、惟彰も知っているということ。
 そりゃそうだ、夫婦なんだもん。惟彰なんて元服してすぐに添臥しの姫が…添臥しの姫?
 鼻をスンと鳴らして、馨君は衾に顔を伏せた。じゃあ、もう水良も知ってるのかな。女の所に通うっていうことが、そ…そういうことだって。
 水良の顔を思い出すと、ズクンと胸が疼いた。涙が目尻にじわりと浮かんだ。薄暗がりの中で馨君がううんと呻くと、ヒタヒタヒタと早足で近づいてきた足音が御簾の前で止まった。
「馨君さま、馨君さま…まだ起きておいでですか」
「何? 若葉」
 若葉の小さな声に気づいて衾を押しのけて身を起こすと、馨君が尋ねた。大変でございますわ。そう言って若葉は廂に平伏した。
「春宮さまが馨君さまのお具合が悪いのではないかと仰られたと、内裏の侍医が調合されたお薬や人参をわんさと持って、頭中将さまと伴(中務)大輔さまがおいでです」
「はあ!? 何で?」
「分かりませんわよ。馨君さま、やっぱりお具合悪いんですか?」
 若葉がピンピンしてるじゃないのと言いたげな目で馨君を見ると、馨君はとにかく着替えて出ようと言って立ち上がった。頭中将は機密文書や訴訟、主上の御用をこなす蔵人所に属していて官位は四位、中務大輔は中務省の上次官で正五位上。どちらも自分より位が高く、特に伴大輔は同じ中務省の上役だった。
「起きても大丈夫なのか、馨の侍従どの」
 直衣を着てきちんと座っている馨君を見て、頭中将は心配そうな表情で尋ねた。何か行き違いがあったのだろうとすぐに察知した伴大輔は、春宮さまがあまりに心配されるので退出したついでに様子を見に来たのだと述べた。
「春宮さまにはご心配いただき、ありがたく思っております」
「明日、出仕する前に梨壺へ寄っていくがいい。春宮さまは馨君を大層、お気にかけていらっしゃるから、顔を見せればご安心なさるだろう」
「はい、そうします」
 馨君が頭を下げると、伴大輔と頭中将は笑いながら、元気そうではないかと言った。すみません、ご心配をおかけして。馨君が赤くなると、伴大輔はニヤリと笑って女房が酒をついだ杯をあおった。
「春宮さまが、馨君の顔が真っ赤だったから熱でもあるのではと仰っていたから、どこかよい姫の元へでも通っているのかと話していた所だったんだ。なあ、頭中将どの」
「そうなんだ。ほら、馨君が大内でよく話している武官の…」
「時の右衛門佐どのですか」
「そうそう、時の宮君は色好みで、まだお若いのに歌も言葉も上手いと女房たちにも評判だろう。影響を受けたのかと思ってな」
「お戯れを、伴大輔どの。私はまだまだ若輩なれば、大内のことで手一杯で姫君のことなど考えている暇はありません」
 ますます赤くなってあわてて言った馨君に固いなあと笑って、伴大輔は周りの女房に、お前たちが知らんだけで、馨君は本当はどこぞの姫君に通っておるのでは?と尋ねた。ホホホと袖を口に当てて笑うと、女房の一人がおかしそうに笑いながら答えた。
「このようなお可愛らしい若君さまが通う姫があるとすれば、同じぐらい愛らしい姫君でなければ見劣りしてしまいます。そんな姫君を探すのは至難の技ですわ」
「水良さまや時の宮さまたちと蹴鞠をしたり、狩りに出かけている方がもっぱら多くて、夜も大内から戻られて夕餉をお召し上がりになったら、すぐに眠っておしまいになられます。朝までぐっすりですもの。お邸を抜け出して姫君の元へ通うなど器用なお立ち回りができるわけがございません」
 馨君の脇で酒をついでいた若葉が笑いながら言うと、頭中将が何も外に通うばかりではあるまいと言って馨君を見た。この屋敷の中にもいませんよ! 馨君が答えると、これでは大納言どのも悩みが深かろうと伴大輔が両腕を組んだ。
「頭中将どのとも話していたのだが、水良さまも妃はいらぬと頑なに拒んでおられるそうなんだ。主上も藤壺さまも、どこか身分の低い姫か女房にでも心を移しておいでなのではと、ご心労を重ねておられる。馨君、そなたは水良さまとも懇意にしてるから、何か聞いているんじゃないのか?」
「…いいえ」
 呆然として馨君が答えると、頭中将は馨君どのも聞いてはおらんのかとため息をついた。以前、添臥しの姫や妃はいらないと仰られていましたと馨君が言うと、やはりそうかと相づちを打って頭中将は塩をつまんで酒をあおった。
「宮腹の姫にも、水良さまに似合いの妃候補があろう。馨君からもお勧めするよう頼む」
「…」
 私にはできません。そう言いかけて言葉を飲み込んだ。臣下の立場として結婚を勧めるのは当然の話で、自分が望むと望まざるとに関わらずそうしなければならない。目を伏せて分かりましたと小さな声で答えると、馨君は安心したように息をついた二人をそっと窺った。主上や藤壺さまだけでなく、宮中のみなが、水良の元服に注目している。
 それが恐かった。子供の頃、自分よりも小さな手をしていた頃の水良を思い出すと、馨君は目元を袖で拭った。酒に酔ってしまいました。そう言って取り繕うように笑った馨君の横顔を、傍らの若葉が黙ったまま見つめていた。

 
(c)渡辺キリ