玻璃の器
 

 来た時は総角に小狩衣を着ていた水良が、帰りは白い直衣に冠姿で、その後ろ姿を馨君は不思議な思いで見送った。それから半刻と少し遅れて、馨君たちも連れてきた馬に乗って会恵の庵を後にした。
「会恵さまはいい方だな。なぜ若くしてご出家なされたんだろうな…」
 右衛門佐が言うと、随身の宗近がご信心深い方なのではと相づちを打った。帰りはゆっくりと馬を歩かせて、馨君はそうだなあと呟いた。案外、水良のように内裏が窮屈だったのかもしれない。巳の刻にようやく京中に入った馨君たちが馬を走らせて三条邸へ戻り、またきちんとした束帯に着替えて陽明門に着くと、門の周りはいつもよりもざわついて騒がしかった。
「お前は黙ってろよ。すぐ顔に出るし、嘘がつけないからな、馨君は」
 そう言って笑うと、右衛門佐が先に内裏に入った。名前を告げて藤壺さまにお取り次ぎをと右衛門佐が言うと、内裏の女房は伺っております、どうぞこちらへと二人を先導した。
 藤壺は宮中よりも更に騒々しく、親王さまが、と女房が口々に話していて二人は顔を見合わせた。無事に戻ったようだな。ホッとして馨君が右衛門佐に続いて藤壺の簀子に控えると、女房が御簾越しに侍従の君さまと右衛門佐さまがお戻りでございますと声をかけた。
「申し訳ありません、藤壺さま。会恵さまの庵に着いた時、水良さまはすでに出発された後と…」
「今、水良本人から聞きました…仕方がありません。あなたはもうお下がりなさい。宇治まで行ってお疲れでしょう」
「は…ありがとうございます」
 絢子の声がして、右衛門佐がちらりと後ろに控えた馨君を見てから立ち上がった。御簾内から水良のありがとうと言う声が響いた。ドキンとして馨君が顔を上げると、右衛門佐は後で会おうと馨君に囁いてから藤壺を出て行った。
 廂にいるんだろうか。何人かいらっしゃるようだが…。馨君が平伏していると、女房が簀子に続いた御簾をするすると上げた。頭を下げたままの馨君に、惟彰の声が上から響いた。
「馨君、ご苦労だったね。手を煩わせて済まなかった」
「いえ…水良さまの御ためですので」
 赤くなって馨君が答えると、面を上げなさいと言う絢子の声が響いた。
 馨君が視線を上げると、上座についた惟彰に続いて水良も直衣に烏帽子姿であぐらを組んでいた。やっぱり夢じゃなかったな…。軽く息をついて馨君が背を正すと、中へ入りなさいと言って惟彰が女房に円座を用意させた。
「いえ、私はここで」
「そこでは寒いだろう。中へ入って暖まって行くといい」
「…では、失礼つかまつります」
 そう言って一番下座に女房が用意した円座に座ると、馨君はおずおずと惟彰を見上げた。それから水良を見て目を伏せると、絢子の大きなため息が響いて、馨君はビクッと肩を震わせた。
「まさか、自分で元服してしまうとは…前麗景殿どのに何とお詫びすればいいのか」
 珍しく憂いた声で呟いた絢子に、申し訳ない気持ちでいっぱいになって馨君は目を伏せた。至らぬことで申し訳ありませんと馨君は頭を下げた。けろっとした顔をしている水良を見ると、お前も謝れと思わず水良をにらんで、それから馨君はもう一度、深々と頭を下げた。
「出家するよりはマシでしょう」
「やめてちょうだい。そんなことになったら、私も尼になりますよ」
 からかうような水良の言葉に、本気で慌てて絢子が言った。その時、隣の間や簀子にいた女房たちがまたざわついて、先触れの女房が主上と両大臣さま大納言さまのお渡りにございますと告げた。
「満員御礼だな」
 それほど事態を重く見ていないのか、苦笑して惟彰が言った。絢子が上座を譲ろうと几帳の奥で動くと、馨君も座を空けようと立ち上がった。馨君がまた簀子に出ると、女房に先導されてお引き直衣姿の主上がゆったりと歩いてきた。
「侍従の君か。宇治から戻ったのだな。ご苦労だった。右衛門佐どのにもそう伝えておくれ」
 主上の声に、馨君はもったいないお言葉にございますと言って簀子に平伏した。主上に続いて左大臣、右大臣と兼長が姿を見せた。御簾の中で空間を仕切っていた几帳のいくつかが取り払われ、絢子が扇で顔を隠して座を明け渡すと、主上が上座にしつらえられた繧繝縁(うんげんべり)に腰を下ろした。
「やあ、水良。似合うじゃないか」
 話には聞いていてもまさかと思っていたのか、両大臣は主上の言葉につられて水良を見、その場でひっくり返りそうになって後ろから女房に支えられた。廂に控えた兼長がぐうっと声をもらした。主上と公卿が並んだ場に胃がキリキリと痛んで、思わず腹を軽く押さえながら馨君は黙って簀子に控えていた。
「そうですか?」
 平気な顔をした水良が主上を見上げて答えた。それは会恵どのの昔の直衣だろうか。目を細めて主上が懐かしそうに尋ねると、水良は頷いて口を開いた。
「すべては私のわがままから始まったこと。どうか誰にも咎めが行かぬよう…ご配慮下さい」
 水良が手をついて頭を下げると、主上は脇息にもたれて扇を口元に当てた。どうしようかな。呟いた主上にギクリとして水良が顔を上げると、隣に座っていた惟彰が続いて口を開いた。
「父上、私からもお願いいたします。過去にも儀式なしに元服をされた帝の先例がございます。それに、水良が咎めを受けるなら、それを察してやれなかった私にも落ち度がございます」
「そなた、また蟄居したいのか? その方が侍従の君が機嫌伺いに来てくれて、そなたには楽しかろうな」
 笑いながら言った主上に、そんなことはと赤くなって惟彰は視線を伏せた。同じように赤くなった馨君を横目で見てムッとすると、水良は父上!と咎めるように口を開いた。
「いくら先例があろうとも、これだけ内裏を騒がせたのだから、無罪放免という訳にはいかんだろう」
「主上」
 下座に控えていた兼長が青くなって顔を上げると、扇を開いたり閉じたりしながら絢子に視線をやって、それから主上は脇息から身を起こした。
「水良、そなたには内裏を出てもらう」
「は…」
 水良がぽかんとして主上を見上げると、主上は言葉を続けた。
「桃園ではないが、東一条に皇太后から譲り受けた小さな屋敷がある。そこをお前にやろう。本来なら前麗景殿の持つ屋敷をやらねばならぬところだが、あれは今、前麗景殿の姉宮どのが住んでいらっしゃるからな」
「主上! それは…」
 真っ向から反対できずに絢子が顔を真っ赤にして言いかけると、主上は絢子を振り向いて優しい目で見つめた。いずれ、出ねばならんのだ。そう言って、主上はまた水良をじっと見据えた。
「その代わり、臣籍降下はまかりならん。そうだな…準備は藤壺に任せよう。女房や従者、調度などをしつらえてもらうとよい。大納言、馨君、そなたたちの家の姫を水良にめあわせることはまだできないが、引き続き水良の世話を頼めるかな」
「主上のお心のままに」
 兼長がそう言って深々と頭を下げると、平伏していた馨君もまた改めて頭を下げた。馨君。絢子から声をかけられて馨君が顔を上げると、絢子が几帳の中から涙声で言った。
「水良をお願い。どうか水良を」
「…私は、臣として友として、いつまでも水良さまをお支えしたいと思っております。それは内裏を出られても同じことでございます。ご安心下さりませ」
 馨君が言うと、水良が絢子に代わってありがとうと呟いた。その横顔にチラリと視線を向けると、惟彰は視線を伏せて黙り込んだ。

 
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