玻璃の器
 

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 東一条にあるという故皇太后の屋敷は、馨君の住む三条邸からまっすぐ北へ登り、土御門大路をわずかに越えた所に位置していた。宮中からすぐ近くにあり、誰もが存在を知ってながら、誰も見たことはないと答えるような四分の一町(ちょう)ほどの小さな構えだった。水良の元服騒動もようやく落ち着きを見せた頃、宮中で盛大な追儺(ついな)が行われた後、年が明けて馨君は十五歳になった。
「こりゃあ…文字どおりの八重葎(やえむぐら)ですな」
 正月の朝賀や宮中行事の間を縫って退出した後、熾森に命じて東一条院を訪れた馨君は、あまりの荒れように思わず口をぽかんと開けて、今にも壊れそうな門を見上げた。主上も意地がお悪いな。何も教えて下さらないのだから。膝丈までぼうぼうに生えた雑草を踏み分けながら中へ入ると、馨君は痛んだ家屋を見てため息をついた。
「土御門邸(つちみかどてい)もそばにあるというのに…左京にこんな荒れ邸があったなんて、京の七不思議のひとつだな!」
「皇太后さまがご存命の頃は、小さいながらも手入れが行き届いて、内裏の東にあることから佐保(さほ)の宮とも呼ばれておりましたようですよ」
「お前…まるで見てきたみたいな言い方だな。皇太后さまが亡くなられたのは、俺たちが生まれるずうっと前のことだろ」
 振り向いて馨君が言うと、熾森はとぼけたような表情でそうですか?と答えた。
 敷地は小さいけれど、内裏からも三条邸からも近いし、手を入れればまだ寝殿は使えそうだ。考えながら草むらを踏み分けて、馨君はまた門の外に出た。今の水良なら、一町もあるような屋敷よりこれぐらいの方が喜ぶかもしれない。
「…明日の朝、藤壺へ伺おう。父上の方から屋敷を直す手配をしてよいのかどうかお伺いしなければ。あれ以来、藤壺さまのご気分もすぐれぬようだと芳姫から文が来てるし、何かお喜びになりそうなものをお持ちしよう」
「それなら、若君が以前から宣耀殿さまにお持ちしようと取り寄せていらっしゃった絵巻物が届いておりますゆえ、それをお回しになればよろしかろうかと」
「お前な」
 苦笑して、馨君はまた牛車に乗り込んだ。しばらくして動き出した車の中で揺られながら、腕を組んで馨君はこれからが大変だな…と静かに目を閉じた。

 
(c)渡辺キリ