玻璃の器
 

 絢子の不快は宮中でも噂となり、左右大臣からもたびたびお見舞いの品をいただいているようだと三条邸に帰るなり兼長が話した。やはり水良さまのご元服と、内裏を出られることがお堪えになられたのでしょうか。馨君が言うと、兼長はそれ以外にはあるまいなと答えて軽くため息をついた。
 中務での仕事もそこそこに、馨君が絢子の機嫌伺いのために内裏へ向かうと、右衛門府の陣がある宜秋門の方から時の右衛門佐が馨君を呼びながら早足で歩いてきた。
「藤壺か。父上からお見舞いを持っていくよう言いつかっているんだ。一緒に行こう」
「兵部卿宮さまから?」
「いやいや、蛍宮の方だよ」
 行こう。雅やかな硯箱を両手で持って右衛門佐が歩き出すと、馨君も隣を歩きながら蛍宮さまももう藤壺さまのご不快をご存じなのかと呟いた。
「あの方の雰囲気はいつも内裏を華やかにして下さるから、早くお元気になられてほしいよ」
 馨君の言葉に、右衛門佐がため息まじりに答えた。
「藤壺さま、馨君さまと時の右衛門佐さまがお見えでございます」
 先触れの女房が御簾越しに控えると、お通ししてちょうだいという藤壺の声が響いた。その声は思ったよりも力強くて、ホッとして二人は廂に作られた席に腰を下ろした。
「藤壺さま、もっとたびたび訪れようと思いながらも、忙しさについ間遠になりまして申し訳ございません」
 馨君が丁寧に手をついて頭を下げると、几帳で仕切られた奥から芳姫の笑い声がした。何だ、ここにいたのか。馨君が息をついて顔を上げると、言うほど間遠でもありませんのにと言う芳姫の声が響いた。
「三日前にここでお会いしたばかりではございませんか、兄上」
「その時に見事な細工のついた櫛笥(くしげ)を持って参りますと申し上げましたのに、一昨日は来られなかったので」
「持ってきますと言って次の日にまた来られるなんて、時の宮どのにも勝るマメ男ぶりで、何だか兄上らしくありませんわよ。兄上は外で忙しく駆け回って、うっかりしてましたって言うぐらいの方がお似合いですわ」
「ひどいな」
 馨君と時の右衛門佐が同時に言って、女房たちも含めた座のみんなが笑った。絢子も袖を口元に当てて笑うと、まなじりを下げて几帳の隙間から二人を眺めた。
「二人ともありがとう。昨日の賭弓はいかがでしたか?」
「楽しゅうございましたよ。最後まで接戦で、主上も喜んでおられましたし。私は右方でしたので、初めから罰杯を覚悟して臨んでおりました。左方の勝ちは分かっておりますゆえ」
 時の右衛門佐が言うと、馨君が驚いて、何で分かるんだと小声で尋ねた。お前はホントにおバカさんだなあ。からかうように右衛門佐が言うと、ようやくピンと来たのか、赤くなって馨君はああそうかと答えた。
「相変わらずね、馨君は。夢中になれば、周りのことがすぐに見えなくなって」
「そうですわ。春宮さまが三条邸においでになった時も、お相撲をして春宮さまを負かしてしまって。春宮さまは兄上がお小さいから手加減されたっていうのに、勝った勝ったって大喜びして、几帳越しとはいえ見ている私の方がはらはらしましたわ」
 思い出して芳姫がクスクスと笑うと、馨君は赤くなって、梨壺さままで何を申されますと俯いた。和やかな空気の中で目を細め、時の右衛門佐が口を開いた。
「左方の最後の射手は弓上手で有名な左近少将どのでしたから、そこで左方勝ちと結になりました」
「どちらにせよ、左方の大将どのが後宴を催されるのでございましょう。兄上も時の宮どのも、これから宴に出る機会が増えるのだから、催馬楽の練習でもなさった方がよろしいのじゃなくて?」
「馨君なら舞を一差しで十分でしょう」
 芳姫の言葉に絢子が返すと、女房たちが確かにみなが侍従の君さまの舞に見とれましょうと囁いた。耳まで赤くなっている馨君をからかうような目で見て、時の右衛門佐が笑いながら口を開いた。
「もう馨君も十五なれば、五節の舞姫という訳には行きますまい。二人でせっせと青海波(せいがいは)でも練習いたしますよ」
 右衛門佐の言葉に、絢子や女房たちがドッと笑った。馨君も一緒に声を上げて笑っていると、何を笑ってるんだ?と言いながら御簾を上げて水良が入ってきた。
「み…水良さま! 藤壺にいらっしゃったのですか?」
 驚いて思わず腰を浮かした馨君に、白い直衣に烏帽子をかぶった水良が俺の亡霊でも見たのか?と言って笑った。いつも外で見かけるから、何となく今日もいないのかと思ってた。考えながら馨君が赤くなると、絢子の声が几帳内より響いた。
「昨日の賭弓では、水良にもせっかくだから見てきたらと言ったのだけど、毎年見ているから今年はいいって」
「ここで去年の葵祭の話をしていたんだよ。母上と梨壺どのが女車に乗り合わせてね、仲がよくてもう本当の母子みたいだってみなが噂してたよ。兄上よりも梨壺どのの方が母上に似てるって」
「まあ、そうやっておからかいになられるけど、水良さまだって小さな頃は母上母上っていつも絢子さまについて歩かれて、一緒にかくれんぼをしようって言っても、母上の方がいいなんて仰ってたじゃありませんの」
 ムッとして言った芳姫に、水良がそうだっけ?と言って首筋をなでた。女房たちや馨君たちが笑う中、ふいに絢子と芳姫の笑い声が聞こえないことに気づいて馨君は顔を上げた。
「藤壺さま?」
 馨君が呼ぶと、几帳の奥で絢子が震える声で何でもないのと答えた。ごめんなさい、心ないことを申し上げましたわ。おろおろとした芳姫の声が聞こえて、今、何の話をしていたんだっけと馨君が焦って口ごもると、水良が目配せをしてするりと静かに御簾外へ出て行った。
「…もう大丈夫よ。ごめんなさいね。水良がもうすぐいなくなると思うと、やはり寂しくて」
 絢子の涙声が聞こえて、馨君は驚いて几帳の奥を見た。気丈な絢子が泣く姿を初めて見た。藤壺さま…。心配げに視線を伏せた馨君の隣で、脇に置いていた硯箱を押し出して右衛門佐が口を開いた。
「藤壺さま、我が父、蛍宮も藤壺さまのお加減を案じております。これは唐渡りの妙薬を酒につけこんだものでございます。何もできぬ若輩の身なれど、親子ともども藤壺さまがご平癒されることをお祈り申し上げております」
 そう言って手をついて頭を下げると、右衛門佐は藤壺のありがとうという声を聞いて顔を上げた。
「そうですよ、藤壺さま。ゆっくりとお過ごしになられて、お元気になられて下さい。今年の葵祭は私もご同行しましょう。それを楽しみに私も参内に励みますゆえ」
 前に乗り出すようにして馨君も懸命に言うと、絢子がクスリと笑った。その声に女房たちもクスクスと笑って、馨君が真っ赤になって何かおかしいことを言いましたかと尋ねると、芳姫が袖で口元を隠して笑いながら答えた。
「兄上、よく詰め所で目がこぼれそうだってからかわれるって仰ってたけど、本当に今、目がこぼれてしまいそうでしたわよ。前のめりになられて、今にも転がってしまいそうなほどでしたわ」
 あれ姫さまと、笑い過ぎておしろいの崩れた女房たちが袖で顔を隠した。梨壺さまはすぐそうやって混ぜっ返しておしまいになられる。むうっとして馨君が座り直すと、隣で顔を背けて笑っていた右衛門佐が、まだ笑っている絢子の声を聞いてホッと息をついた。

 
(c)渡辺キリ