玻璃の器
 

「佐保宮を見に行ってくれたんだって?」
 馨君と時の右衛門佐を内裏の門まで送りながら、水良が言った。
「耳が早いな」
 馨君が驚いて答えると、水良は小霧に聞いたんだと言って笑った。彼女は千里眼でも持ってるんじゃなかろうか。でなければ信太の森の狐とか…。馨君がうーんと呻くと、隣を歩いていた右衛門佐が笑いながら口を挟んだ。
「熾森から聞いたんだろう。小霧が内裏へ入って可哀相だと思ってたけど、何かと文は届けているようだしな。こないだも殿上童に言伝を頼んでいたし」
「…え!??」
 思わぬ名前に馨君が驚くと、知らなかったのか?と呆れたように言って右衛門佐は水良にご存じでしょう?と尋ねた。小霧とは知らなかったな。竜田かと思っていた。そう答えて水良が苦笑すると、何だあ、知ってたのは俺だけかと笑って右衛門佐は馨君を見た。
「知らぬは主ばかりなりか。お前、熾森に直接、小霧とどうなってるんだとか聞いちゃ駄目だぞ」
 そう言って、右衛門佐は馨君の肩を叩いた。後涼殿のそばまで来ると、水良が立ち止まった。馨君が水良を見上げると、水良は腕を組んで口を開いた。
「俺は佐保宮へ移るまで、できるだけ母上の元にいようと思うんだ。正直、あんなに憔悴されるとは思ってなかったから。だから、佐保宮の手入れはお前と大納言どのに任せることになってしまうけれど…申し訳ない。俺も動ける時はできるだけのことをするよ」
「何を仰いますか。父上も私も、進んで藤壺さまにそう申し上げようと話していたばかりですよ。水良さまが快く佐保宮へお移りになれるよう、心を尽くしてお世話させていただきます」
 そう言って馨君がちょいと頭を下げると、水良は目を細めて頼むと答えた。それにしても、今日はおかしかったなあ。右衛門佐が頭を下げた馨君を見て思い出したのか、笑いながら言葉を続けた。
「俺だけでは贈り物を渡しただけで、あんなにも大笑いしていただけたかどうかは分からないよ。馨君がいたおかげで、藤壺さまのご気分も少しは晴れなさっただろう。全く、お前には負けるよ」
「そう言えば、俺が出て行った後も笑い声が響いてたけど、何を話してたの?」
「何でもないんだ! 行こう、右衛門佐どの。よけいなこと言ってないで」
 馨君が右衛門佐の背を押して歩き出すと、水良は手を上げて、今日はありがとうと二人の背中に叫んだ。馨君と右衛門佐が振り向くと、水良は手を大きく振って笑っていた。
「そんなにボロ家だったのか? 東一条邸は」
 そのまま退出するために待賢門に向かった二人は、日の暮れかけた空を見ながらのんびりと歩いた。そりゃあもう、すごかったよ。馨君が思い出しただけで大変だと言わんばかりに天を仰いでため息をつくと、右衛門佐は笑って口を開いた。
「だけど、それほど大きくはないんだろう? 父上に聞いてみたけど、昔は白梅院さまとケンカなされた皇太后さまがお忍びでよく逃げ込まれたので、いつも手入れが行き届いていて、庭などなかなか風情があったって仰ってたぞ」
「それも今は昔だなあ。雑草なんてこんな長くて、踏み分けるのが大変だった」
 馨君が膝辺りを手で示して言うと、右衛門佐はよかったらこれから蛍宮邸に来ないかと馨君の肩を叩いた。え? 馨君が顔を上げると、右衛門佐は足を速めた。
「な、お前も前の佐保宮の様子、知りたくはないか。父上は若い頃、琵琶を弾きに佐保宮へ何度か行ったことがあるらしいぞ」
「へえ、それはぜひお伺いしたいな。蛍宮さまには大内でお見かけするぐらいしかなかったから、一度お会いしてぜひ笛を教えていただきたいと思ってたし」
「そうだったのか? 言ってくれればいつでも連れていくのに。でも、最近では父上ご自身が、弟宮の方が笛は達者だと仰せになっておられるよ。俺も笛は自信があるけど、今では弟宮の方が腕は上だ」
「弟宮…椿の宮君とかいったかな。三条邸の女房が話していたことがあるよ」
「それだそれ。じゃあ行こうか。笛も習いたいのなら泊まってけよ。蛍宮邸の女房は、みな柳腰でたおやかだぞ」
 そう言って馨君の肩を抱いた右衛門佐に、馨君は苦笑した。未だにやっぱり女のことは考えられない。次から次へと忙しいせいかもしれないな。基本的に面倒くさがりだし。牛車を待たせている待賢門につくと、馨君は熾森の姿を探した。

 
(c)渡辺キリ