玻璃の器
 

 実母が急死して早や四年が経ち、蛍宮家で十二歳の正月を迎えた冬の君は、今年十九歳となった女一の宮、富久子と同じ対ではまずかろうという北の方の計らいで西の対の外れに移っていた。椿の宮の乳兄妹である清白が、椿の宮に命ぜられて西の対に女房として勤めていた。
 小柄な冬の君が艶やかな髪を角髪に結い、いつもきちんと童直衣を着込んで鎮座している様子は雛に似て愛らしかった。子供好きな蛍宮からは可愛がられていたものの、父親の知れない遠縁として扱いに戸惑う女房たちのよそよそしい態度は変わりなかった。西の対に女房の数はそれほど多くなく、時々、椿の宮や富久子が訪れる以外はほとんど客の出入りもない。
「…二の宮さま」
 急に寝殿の方が騒がしくなった。誰か客人でも来たのかと清白が小声で話しかけると、幾重にも重ねた几帳の奥から椿の宮が囁くように答えた。
「あわてるな。父上に客でも来たのだろう」
「でも…」
 御簾を下ろした母屋は薄暗く、いくつも立てられた几帳の影にいるとほとんど表情も見えなかった。人払いをして清白以外の女房は誰もおらず、火桶から時々炭がはぜるような音が響いた。寒い中、清白は几帳から離れてほとんど廂に近い御簾近くに縮こまって座っていて、時々、震えながら誰かが来ないか様子を伺っていた。
 時に二人の声が響いて、その度に清白は耳を塞いだ。
 二の宮さまはなぜ、冬の君に執着なさるのか。
「心配なら、少し様子を見てきてくれ」
 感情を抑えたような椿の宮の声にようやくホッとして清白が立ち上がった。この場から少しでも離れたかった。清白の気配が遠のくと、椿の宮も息をついてから身を起こした。この寒い最中にうっすらと汗ばんだ手のひらで、床の上に伏したままの冬の君の頭を椿の宮は乱暴になでた。
「…堪え難いか」
 椿の宮が呟くと、薄暗がりの中で冬の君は黙ったまま首を横に振った。
 その肩を後ろから強く抱くと、椿の宮の総角に結った髪がさらりと冬の君の首筋にかかった。
「清白が戻ってきたみたいだな」
「…」
 言葉もなく冬の君が振り向くと、椿の宮が冬の君の背に自分の頬を押しつけた。清白の足音は年若の女房らしく大きく響いて、椿の宮がどうしたんだと声をかけると、清白は簀子に平伏して荒い息を整えてから答えた。
「あの、だっ、大納言家の侍従の君さまが、一の宮さまと共においででございます」
「え、馨君が?」
 京中で麗しい君と音に聞こえる馨君が来たのかと、軽い興奮を隠せずに椿の宮が尋ね返すと、左様にございますと答えて清白は顔を上げた。
「それで、あの…お方さまの女房どのが椿の宮さまを探しておいででございます。いずれ大臣にもなられるお方なれば、かの君の覚えめでたきほうがよかろうと」
「母上はいつもそればかりだな。仕方ない。すぐに着替えて参上しよう」
 すぐ戻るから、お前はここにいろ。椿の宮の言葉に、乱れた衣服を整えて几帳の影に身を潜めていた冬の君が小さく頷くと、清白は少し言いよどんでから口を開いた。
「いえ、蛍宮さまが冬の君さまも呼ぶようにと仰せでございます」
「え? 冬も?」
「はい。冬の君さまも元服なされば、いずれはご出仕するやもしれません。馨君さまにお目にかかれる機会はそうないだろうからと」
「…そうか」
 振り向いて几帳を見ると、椿の宮は清白に鳥の子の童直衣を着せてやってくれと頼んだ。自分も自室に戻って女房に香色の童直衣を着つけられ、馨君とはどんな方なんだろうと考えながら女房の後について急いだ。

 
(c)渡辺キリ