玻璃の器
 

 蛍宮邸は、華美ではないものの先々帝から譲り受けたという古風なしつらえの屋敷に、控えめに植えられた庭の寒椿が花咲いていて、時の右衛門佐と牛車に乗り合わせてきた馨君は中に入るなり庭を眺めて表情をほころばせた。
「雪に紅さす寒椿、か。美しいな」
「父上がお好きなんだよ。花が咲かなければそれはそれで、あの艶やかな葉がよいのだそうだ」
 女房に先導されて寝殿に入ると、さっきまで箏の琴を弾いていたのか、爪をつけたまま蛍宮がゆったりと座ったままいらっしゃいと笑った。父上、お久しぶりでございます。下座に座って頭を下げた右衛門佐に続いて、女房に腰に差していた太刀を渡してから馨君は右衛門佐の隣に優雅に腰を下ろして頭を下げた。
「初めてお目にかかります。侍従の藤原芳璃にございます。蛍宮さまには大内の管弦の宴でいつも心が洗われるようなよい音をいただいております」
「そなたが馨君か。なるほど、二条の方によく似ておいででございますな」
「おばあさまをご存じですか」
 驚いて馨君が顔を上げると、内大臣どのが亡くなられる前に、お二人に琵琶の手ほどきをさせていただいたことがありますと言って、蛍宮は目尻の皺を深めて微笑んだ。思わぬ所でつながっているものだな。感心して馨君が息をつくと、蛍宮は手を打って女房に夕餉を持たせるよう頼んだ。
「退出してきたばかりで、夕餉もまだでしょう。今日は鮑がたくさん届いたから、熱汁を作って差し上げましょう」
 おっとりと言って女房に蚫の熱汁を作るように命じると、蛍宮は手についていた琴の爪に気づいて外した。しばらく宮中の話を三人でしていると、女房たちが懸盤や瓶子を持って入ってきて二人の前に膳を並べた。
「あ、母上。お久しぶりでございます」
 右衛門佐が音に気づいて声をかけると、扇で口元を隠した蛍宮の北の方、禎子が北の口からするりと入ってきて几帳の奥で手をついた。
「一の宮もお元気そうで何よりでございます。侍従の君さま、ようこそおいでいただきました。父上さまには幼い頃、二条の方さまの元で何度かお目もじ申し上げましたが、時のたつのは早く…」
「母上、ご挨拶はそれぐらいにして下さいよ。もう腹が減って、馨君もふらふらだ」
「まあ、一の宮。あなたは相変わらずねえ。兵部卿宮さまの女一の宮さまの元ではちゃんとやっているのでしょうね」
 口上を遮られた禎子は、扇の内でぶつぶつとお小言を言った。礼節を忘れずちゃんとやってますよ。右衛門佐が笑いながら答えると同時に、先触れの女房が椿の宮さまのお渡りでございますと告げた。
「今夜は賑やかで何よりだ。二の宮はまた西へ遊びに行っていたの? 遅かったじゃないか」
 蛍宮がにこやかに笑って声をかけると、簀子で平伏した椿の宮が御簾の外で顔を上げた。
「申し訳ございません。冬の君と笛の話をしておりましたゆえ、遅くなりました」
「そこは寒いだろう、早く中に入って火桶で暖まりなさい」
 蛍宮が言うと、女房が上げた御簾の隙間から椿の宮が中に入った。顔はどことなく時の右衛門佐どのに似ているな。馨君が嫣然と微笑みながら軽く会釈をすると、その美しさにぽかんとして椿の宮は真っ赤になった。
「あ…お初にお目にかかります、侍従の君さま」
 あわてて椿の宮が床に手をついておじぎをすると、馨君も頭を下げてよろしくお願いしますと答えた。武官束帯を着込んだ右衛門佐に比べると、文官束帯の馨君はどことなく柔和で、腰に巻いた平緒も珍しい石がついていて御曹子の雰囲気を漂わせていた。やっぱり噂通りだな。うっとりと馨君の赤いふっくらとした唇に見とれると、ふいに右衛門佐に話しかけられて椿の宮はビクッと肩を震わせた。
「え、何ですか、兄上」
「何だ、お前も女房たちのように馨君に見とれていたのか? いくら恋慕の情を抱いても、侍従の君では北の方にはできないぞ」
 右衛門佐が言うと、女房たちが忍び笑いをもらした。顔を真っ赤にして椿の宮がおからかいにならないで下さいと言うと、蛍宮が笑いながら言葉を続けた。
「馨君は笛と琵琶を習いたいのだそうだ。琵琶はまだ負けぬが、二の宮の吹く笛には私も一歩及ばぬ。そなた、馨君に笛をお教え差し上げてはくれぬか」
 蛍宮に言われて、椿の宮はしどろもどろになりながら私がですか!?と尋ね返した。できれば笙も教えていただきたいのですが。馨君がおずおずと言うと、椿の宮は私で務まりますでしょうかと答えた。
「それなら、実際に笛を吹いて差し上げてはどうか。流鏑(ナガレカブラ)を持ってきてあげなさい」
 そばにいた女房に蛍宮が頼むと、女房が立ち上がって妻戸から出て行った。流鏑は私が父帝からいただいたものなんですと目を細めて、蛍宮は扇を開いた。
「流鏑馬の射る矢のように鋭く美しい音を奏でるものだから、流鏑という名がついたのですが…私が初めて管弦の宴で笛を吹くことになった時に父帝より賜ったもので、二の宮が幼い頃、何度もあれを出してきて遊び道具にするものだから、ついにはとうとう与えてしまったのですよ」
「ろくに吹けもしない頃から、何でか椿はあれが気に入りだったなあ。他の笛なんて見向きもしないで、母上がどこに片づけても見つけだして吹いていた」
「そのようなこと、もう覚えておりません」
 赤くなって答えると、椿の宮は右衛門佐と声を合わせて笑っている馨君の横顔をチラリと見つめた。不思議だな。大きな黒い目がどことなく冬の君に似ているような気もする。冬の君も、笑えばこんな風に愛らしい表情をするのだろうか…。椿の宮が目を伏せて考えているとふいに衣擦れの音がして、西の対の女房が妻戸に控えた。
「お殿さま、冬の君さまがおいででございます」
「おお、ようやく来たか」
 冬の君? 馨君が小首を傾げて振り向くと、右衛門佐が事情があって預かっている遠縁の子だと耳打ちした。人のよさそうな笑顔の蛍宮を馨君が見上げると、鳥の子色の童直衣を着た冬の君が、笛を懐に持ってするりと中に入ってきた。
「流鏑をお届けするよう女房に頼まれましたので」
 その子供らしい高い声が微笑ましく、馨君は振り向いて冬の君を見上げ、一瞬息を飲んだ。思わず腰を浮かした馨君を見て、右衛門佐がどうかしたのかと声をかけた。いや、何でもないんだと言いながらも、まだ冬の君の顔をジッと見つめて馨君は円座に座り直した。その視線に気づいているのか気にならないのか、無表情のまま流鏑を椿の宮に渡して、冬の君は一番下座に腰を下ろした。
「そんな所ではなく、ここへおいで」
 ポンポンと自分の膝を叩いて蛍宮が言うと、椿の宮が行くがよいと小声で冬の君を促した。小柄な冬の君は立ち上がっても八歳ぐらいにしか見えず、無表情とはいえ愛らしい顔立ちで、すでに十四歳になって大人びた表情をするようになった椿の宮をまさか膝に抱く訳にも行かず、子供好きの蛍宮は冬の君を末の宮のように可愛がっていた。おずおずと歩いて蛍宮のそばに控えた冬の君を抱きかかえて自分の膝に座らせると、蛍宮は笑いながら冬の君の頭をなでた。
「侍従の君、この子は私の遠縁の子で、冬の君と呼んでいるのです。母上がある冬の日に頓死されてね…昔、母上に文を届けていたという受領がこの子の愛らしさに目をつけて上総へ連れていこうとした所を、ようやく見つけて引き取ったのですよ」
「…そうなんですか。お可哀相に」
 そう言いながらも、視線は大人しく蛍宮の膝に抱かれている冬の君に吸い寄せられている馨君を見ると、右衛門佐は怪訝そうに眉をひそめた。いずれ、元服させて出仕の糸口を見つけてやろうと思っています。冬の君の艶やかな髪を何度もなでながら言うと、蛍宮は椿の宮に笛を所望した。

 
(c)渡辺キリ