水良に会えないまま、月日が流れた。
三日と空けずに通っていた梨壺へも自然と足が遠のき、暑い最中だというのに用のない時の馨君は中務省に籠りがちになってしまった。馨君は最近、いつもここにいるなあ。侍従の詰め所で書き物をした後、ついでに上司の目を盗んで字の練習をしていた馨君は、ふいに後ろから時の右衛門佐に声をかけられ、思わずそれを隠して真っ赤になった。
「何書いてたんだよ?」
「な! 何でもないよ」
そう言って文字を書いていた紙を丸めようとした馨君のスキをついて、時の右衛門佐はパッと紙を取り上げた。女に宛てた歌か? ニヤリと笑って尋ねると、返せって!と叫んだ馨君の手を遮って時の右衛門佐はそれを読んだ。
「筒井筒…何だ、むかし男ありけりか。幼なじみに恋慕でもしてるのか?」
「ち、違うよ…手遊びに書いてただけ。練習に」
そこには、幼なじみの頃のままでいれば、こんなに胸が苦しい夜を過ごさなくても済んだのに、という意味の歌が書きつけられていた。赤くなって俯いてしまった馨君を見て、時の右衛門佐は紙を返した。
「いいか、初めて忍んでいくんだったら、満月の夜がいいぞ。新月の夜は何も見えないからな。慣れてないと別の女の所へ間違えて行ってしまう危険性大なんだ」
「何の指南だ」
呆れたように馨君が言うと、一度ぐらいは勇気出せっていう話だよと答えて時の右衛門佐は笑った。勇気って…唇を尖らせた馨君に、時の右衛門佐はいつまでも子供のままではいられまいと真顔で言った。
「今度、清涼殿で行われる月見の宴では、場に花を添えるためにお前も呼ばれるだろう。俺はもうすでに義父上を通して笛のご所望があったから行くけどな。苦しい恋だ何だと難しい顔なんかしてないで、見目麗しい女房でも見つけて一夜の契りでも楽しんでくれば?」
「苦しい恋なんかしてませんって」
「はいはい」
言い訳がましく言った馨君の肩を笑いながら叩くと、時の右衛門佐はまた来ると言って手を上げた。月見の宴か…目を伏せて、馨君はふうと息をついた。水良もいるんだろうな、きっと。
やっぱり…妃を娶った方がいいと告げなければいけないんだろうか。
考えているだけで胸が苦しくて、息をするのも重かった。硯箱を片づけて立ち上がると、馨君は退出した。
「お疲れさまでございます」
待賢門から出て、牛車の準備をして待っていた従者の熾森に頷くと、榻(しじ)を踏んでから振り向き、それからピリッと表情を強張らせて馨君は早く出してと早口で言った。牛車に乗り込んだ馨君を確認してから熾森が御簾を下ろして牛をつながせ出発すると、熾森!というまだ少年らしい声が響いた。熾森が牛飼い童に牛を止めさせて振り返ると、水良が退出する他の牛車の間を駆けてきて追いついた。
「馨君は…」
切羽詰まったような水良の表情を見ると、熾森は答えた。
「別の従者を連れて、先に徒歩で退出されました」
「徒歩? なぜ」
「暑いので、夕涼みに笛の上手い従者と歩いて帰ると仰られて」
牛車の中で、馨君は息をひそめた。熾森が何かを察したのか。鼓動がいつもより早く打っているのを感じて、目を伏せたまま馨君が外の気配を探っていると、ふいに牛車の後面に下がっている御簾をめくって水良が飛び込んできた。
「…水良」
小さなかすれた声で馨君が呟くと、水良は御簾をめくって外の熾森をニラみ、出せと鋭く言った。ゴトンと大きく揺れて牛車が動き出すと、ずっと黙っていた馨君が中腰になって上座を譲ろうとした。
「よい、このままで」
「でも…誰かに見られては」
「よいと言ってるだろう」
馨君から目をそらしたまま、わざと並ばずに後方に座ると水良は立てた片膝に肘を乗せた。道のでこぼこに車が大きく揺れて、馨君が手をついた。申し訳ありません。水良の衣に手が触れて馨君が赤くなると、水良はしばらく黙った後、真っ直ぐに馨君を見た。
「母上が、馨君の訪れがないと心配しておられる」
「恐れ多いことにございます」
「兄上もだ。芳姫が寂しがっておられると言っていたが、寂しがっているのは兄上の方だろう」
「…」
「なぜ来ない」
俯いたままの馨君を見ると、また目をそらして水良は後方の御簾へ視線を向けた。いや、違う。フッと息をつくと、水良は自分の小狩衣の紐を視線でなぞった。寂しいのは、母上でも兄上でもない。以前はもっと頻繁に顔を見せてくれたのに。口をつぐんだままの水良を見て怒っていると誤解したのか、馨君は膝の上に乗せた手をギュッと握ってボソリと答えた。
「少し…忙しかったことと、体調を…」
「ぴんぴんしていると、時の右衛門佐から聞いた」
あの方は。舌打ちしたい気持ちを堪えて馨君が言い訳を探していると、水良は避けているのは俺か、内裏かと尋ねた。避けているなどと。ようやく顔を上げて馨君が言うと、水良も馨君を見て眉をひそめた。
「急にどうしたって言うんだよ…」
目が合うと、馨君は目尻にじわりと涙をにじませた。え?と驚いた水良の前で、黒い大きな目からボロボロと涙の粒が転がり落ちて衣を濡らした。うううと喉から声をもらしてその場に突っ伏すと、馨君は水良の足に頭を押しつけてまたううーっと呻いた。耳の先が熱かった。何で俺は、言えないんだろう? 水良の後ろ楯となってくれそうなしっかりとした家の姫を探すのは、俺の役目なのに。
本当に、水良のためを思うなら。
「か…馨君?」
狭い牛車の中で膝を立てると、水良は馨君の自分よりも小さな両肩をつかんだ。冠が邪魔で、顔をしかめてそれを避け、水良は馨君の耳元で泣くなと囁いた。水良の膝に額を押しつけると、馨君は絞り出すように呻いた。
「な…何でもない、何でも」
「馨君。話してくれないと分からない」
水良の声が優しく響いた。…っく、ひっくとしゃくり上げて、馨君は水良の袖の裾をつかんだ。うあああんとまるで子供のように声を上げて泣くと、馨君は肩を小刻みに震わせた。その背中にそろりと触れると、水良はそろそろと馨君の背中を何度もなでた。頑なに顔を上げようとしない馨君に、どうしていいのか分からずに水良はただ黙っていた。
ふいに牛車が揺れて止まった。着いたのか。水良が顔を上げて振り向くと、御簾の向こうに熾森の袖が見えた。水良の膝に顔を伏せたまま喉を震わせている馨君の肩を抱くと、水良は尋ねた。
「三条邸か。馨君はまだ…」
「遠回りをして、川沿いに車を停めましてございます。仰っていただければ、三条邸へでも大内でも向かいますが」
「…まったく、お前は本当によくできた従者だな」
「恐れ入ります」
無表情で引っ込んだ熾森に、水良はホッと息をついた。まさかこんな状態の若君を連れて帰る訳にはいかない。黙り込んだ馨君の細い肩をつかんでその顔を上げさせると、馨君の目は真っ赤に腫れて涙がにじんでいた。
「ゴメン」
訳が分からないまま水良はそう言って、馨君の頬を手で拭った。何度もこすって涙を拭い取ると、下に手をついたままぼんやりと自分を見上げた馨君の大きな目を見て、水良は息を殺した。その赤い両頬を自分の両手でそっと挟むと、水良は呆然とされるがままになっている馨君のこめかみに自分の頬を押しつけた。
「…ゴメンな」
何かは分からないけど…藤壺か、俺が関係しているのだろうな。そっと触れた馨君の頬は、ふっくらと羽二重餅のように柔らかくて、水良は慰めようとしていたことも忘れてうっとりとそこに唇で吸いついた。驚いて馨君が視線を上げると、水良はあわてて手を離した。
「あ…俺、ゴメン」
「…何もしてないのに、謝ってばかりだ、水良は」
袖で自分の頬の涙を拭うと、少し落ち着いたのか息をついて馨君は目を伏せた。しばらく黙っている馨君を見て水良も口を閉ざしていると、ふいに水良から視線をそらしたまま馨君は呟いた。
「俺は…惟彰さまと同じように、お前のことも支えていこうと思ってる。たとえお前が藤原の娘を娶らなくても…もし、他の姫を好きだって思ってもそれは…同じことだ。でも、父上もみなもそうは思ってない」
他の姫を娶る? 同じように馨君から視線をそらしたまま、水良は息をひそめた。
何を言ってるんだ、こいつは。
こんなにそばにいるのに、何も分かってないんだ。
「なら、なぜ泣く」
水良がボソリと尋ねた。目を伏せたまま、馨君は頭を振った。自分でも自分の気持ちが分からなかった。ただ大きな濁りが胸を包んでいた。
ため息をつくと、水良は外を覗いた。熾森。名前を呼ぶと、牛車のすぐ脇に立っていた熾森が振り向いた。聞いてたな、こいつ…。眉をひそめると、水良は三条邸へと告げた。牛車が動き出しても、二人は視線を交わさないままじっと黙り込んでいた。
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