玻璃の器
 

 月見の宴は、清涼殿と後涼殿の間にある壺庭を眺めながら行われた。
 月を眺めながら漢詩を読む宴は、管弦楽も交えながら続いた。碌を賜り舞をさす殿上人や女房たちのさざめくような笑い声の中、酔いの回った頭を冷やそうと馨君はそっと座を離れた。最近、ずっと鬱々としていた気分も少しだけ晴れたような気がした。
 水良の前で泣いてしまったことも、気が晴れた一つの理由だった。何をどうするにしても、自分が水良を思う気持ちは同じだった。清涼殿以外なら今日は人も少ないだろうと端近でそぞろ歩きをしながら月を見上げていると、前から女房が一人歩いてきた。
「…朝顔?」
 ドキンとして馨君が声をかけると、朝顔はふと扇を開いてから微笑んで頭を下げた。ほろ酔いの馨君を見ると、笑いながら朝顔は口を開いた。
「水をお持ちしましょうか、馨君さま」
「いいよ。少し一人になりたかっただけだから。藤壺の庭は人がいるだろうか」
「…藤壺さまの局は出払っておりますから、その辺りならごゆっくり休めるかと」
「ありがとう」
 これから自分の局へ戻るんだろうか。それとも宴に出ているはずの水良の様子でも見にいくんだろうか。ぼーっとした頭で考えながら朝顔の背中を見送ると、馨君はまたふらりと歩き出した。さっき時の右衛門佐が吹いていた笛の調べを口ずさみながら歩いて、ふいに馨君は立ち止まった。
 暑さのため袴を膝までたぐり上げ、庭に向かって足を出して水良が座っていた。高欄に腕をかけてぼんやりと月を見ている水良が、気配に気づいて振り向いた。
「水良…」
 馨君が呟くと、水良はシッと人さし指を唇に当てて、それから振り返ってお前たちは下がれと言った。御簾を半分ほど下ろして中にいた女房たちは、簀子を歩いてきた馨君の位置からは見えていなかった。高欄をつかんで立ち上がると、水良はゆっくりと高欄から手を離した。目の前に立つ水良を、まるで夢の中にでもいるかのようにぼんやり見上げると、馨君はふいにふらりと一歩前に出た。
「大丈夫か、また飲んでるんじゃないのか?」
 水良が苦笑して言うと、馨君はムッとしてそれほど飲んでないと答えた。水良の隣に立って月を見上げると、清涼殿の方から管弦楽の音が響いていた。簀子に月見の供物が置かれているのを見ると、ここで月見の宴をしてたのかと尋ねて馨君は水良を見上げた。
「まあな。初めだけ向こうに顔を出したんだけど、そっと抜け出してきた」
「藤壺さまに怒られないか?」
「母上よりも、兄上だよ。最近、じっとしてろってうるさくて…」
 水良が言うと、馨君は声をたてて笑った。その顔を見て水良もクックッと小さく笑って、それから息をひそめた。馨君の重みを腕に感じた。そのままズズズとその場に座り込んだ馨君に驚いてその顔を覗き込み、それからホッとして水良もその場にあぐらを組んだ。
「…眠い」
 急に睡魔に襲われたのか、馨君は水良にもたれて目を閉じた。触れた所が熱くなって、そのまま溶けてしまえばいいと何度も思った。握りしめた馨君の手は酒のせいで熱を持っていた。華奢な肩を抱いて水良が自分の膝にもたれさせると、馨君は水良の膝に頭を乗せて目を閉じた。
 そのまま、すうすうと気持ちよさそうに寝息をたてる。
 …好きだ。
 馨君の腕をさすると、その肩に唇を寄せて水良は目を閉じた。好きだ。好きだ…心で囁いている。
 そのすべてをおれのものにできたら。
 そろそろと頬に触れると、肩を抱いて水良はそこにこめかみを押しつけた。どうして姫に生まれなかったのかなあ。そうすれば…きっと、お前を一番に望んだ。
 母上や兄上を困らせることもなく。
 しばらく黙って馨君の気配を探ると、水良はふいに身を起こしてそっと女房を呼んだ。下がっていた女房が水良の声に気づいて簀子に出てくると、まあ侍従の君さまと声を上げて近づいた。
「水良さまのお膝を…」
「よいから、衣を一枚かけてやってくれ。それから清涼殿へ行って、兼長どのに馨君はここにいるからと伝えてくれ」
「かしこまりました」
 そう言いながらも、水良が気安く膝を貸していることにぶつくさ呟きながら女房は衣を取りにいった。その足音に、馨君がう…んと呻いて手を伸ばした。その手をまたつかんでぎゅっと握ると、目を細めて水良はその顔を飽かず眺めた。

 
(c)渡辺キリ