玻璃の器
 

 年の暮れ、霜柱ができるほど冷え込んだ寒い朝。
 明かり取りに女房が格子を上げていた。藤壺女御の元へ兼長に連れられて機嫌伺いにきた馨君は、ちょうど珍しい織りの衣を贈り物にと持ってきた権大納言行忠と鉢合わせした。慇懃に礼をする行忠に馨君が頭を下げると、まあ久しぶりねと言う絢子の声が響いた。
「ご無沙汰しまして申し訳ありません。藤壺さま」
 絢子とは一月ぶりの対面で、馨君がにこにこと笑みを浮かべると絢子は几帳の向こうで同じようににこやかに笑った。藤壺さまはやはり馨君を大層お気に召しておいでですなあ。白い直衣の袖の皺をピシリと直して行忠が目を細めると、馨君はいえ…と謙虚に答えて軽く頭を下げた。
「内親王さまはお元気であらせられますかな。この寒さでは、外で遊び回れず退屈なさっておいででは」
 目を細めて兼長が言うと、絢子は中でも駆け回っておいでですわと答えた。そばにいた女房が今は水良さまと共に梅壺さまの所へ遊びにおいでですと言うと、兼長の隣にいた行忠がぽんと膝を打った。
「そう言えば、水良さまはご元服がお決まりとか」
 その言葉にドキンとして馨君が行忠を見ると、兼長が行忠から見えないように馨君の袖を引いた。
「私はもう少し先にと主上に申し上げたのですが、主上はそろそろよいだろうと仰せなのですわ。来年か再来年のことと思っておりますの」
 扇の内で絢子がため息まじりに言うと、兼長が恐れながらと言葉を続けた。
「藤壺さまは水良さまを本当に慈しんでおいでですからな。私も水良さまが幼い頃からずっとお守りしてきましたから、我が子のように水良さまを大人としてお支えする日が待ち遠しくもあり、また寂しくもありますよ」
 よく言うよ、本物の我が子には早く大人になれしっかりしろとガミガミ口うるさく言った人が。むうっと馨君が黙っていると、行忠がそれもそうですなあと鷹揚に笑った。
「水良さまは供を連れて、宇治までもお出かけになられるとか。宇治に住む私の心安いものが、以前、水良さまが会恵さまの庵を訪ねておられる姿を見かけたと言っておりました。いやあ、私でも滅多に宇治まで出かけることはありませんよ。まだ総角なれど、そこらの大人よりずっと水良さまは立派でいらっしゃいますな」
 歯の浮くようなお世辞をと心で苦虫をかみつぶしながらも顔では笑って、兼長は本当にそうですなと話を合わせた。押され気味の兼長の横顔を見ると、ここぞとばかりに行忠は口を開いた。
「春宮さまには、私の大切な正室との姫を差し上げましたが」
「そうね、宣耀殿どのには春宮さまの内裏での生活を、華やいだものにしていただいておりますわ」
「そうなのです。宣耀殿さまを春宮さまに差し上げましたことで、我が三の姫を同じように水良さまに添臥しとしていただけたら、こんなに光栄なことはないかと思っておりまする」
「権大納言どの、それは」
 驚きで腰を浮かした馨君の膝を押さえると、兼長は落ち着いた声で馨君の名を呼んだ。相変わらずどっしりと構える行忠を見ると、兼長は両腕を組んだ。
「失礼ながら、行忠どのの三の姫は宣耀殿さま同様、春宮さまにという噂もありまする。それを今、水良さまにとは」
「以前から考えていたことにございます。三の姫は我が娘ながら気だてもよく、私の祖母に似て愛らしい顔立ちをしておりまする。水良さまとはきっと雛のように似合いの夫婦になりましょうなあなどと考えると、楽しみでならんのですよ。私とて、春宮さまと同じように水良さまもお支えすべき方と思うておりますゆえ」
 目を細めて笑うと、行忠は驚きのあまり黙り込んだ馨君にちらりと視線を向けた。やはり兼長どのの妾腹の姫を水良さまにと、親子で話しておったに違いない。
「二の宮の添臥しは、主上がお決めになられることですわ。私には判断がつきかねます。行忠どののお心は嬉しく思いますけれど」
 戸惑いを声に含ませて、絢子が答えた。左様でございますかな。とぼけたように言うと、行忠は頭を下げて私はそろそろ下がらせていただきますと挨拶をした。また後ほど、とにこやかに兼長が言葉を返すと、優雅な立ち居振る舞いで行忠は立ち上がった。
 内裏の女房に先導され、その姿が見えなくなると、御簾の内にいた絢子がはああと大きく息をついた。
「三の姫ですって!? 気だてがよいなんて噂聞いたことがないわよ! 言うなら主上に言えってのよ!!」
 立ち上がって扇を几帳に投げつけた絢子に、馨君は腰を抜かしそうになった。藤壺さま、お静まりになって下さりませ。周りの女房たちがあわてて絢子を押さえると、絢子は脇息に顔を伏せて悶えた。
「惟彰はともかく、水良はまだ子供よ!? 未だに女房も連れずに庭で猫を追い回して遊んでるじゃないの! 添臥しなどつけた所で、共に双六でもするか物見遊山の話をして過ごすのがオチよ!!」
「藤壺さまの前で水良さまに三の姫をとは、思いきったことを言い出したものだ…行忠のやつめ。公卿間の根回しでは話が進まぬと見たのだろうか」
 ふうと大きく息をつくと、兼長はまだ黙り込んでいる馨君を振り向いた。お前、水良さまが思う姫の噂など聞いたことはないのか? ふいに問われて馨君は首を横に振った。
「いえ、水良さまはいつも、妃はいらぬとおっしゃられておいでなので…」
「行忠があのように言い出した以上、そういう訳にも行くまい。行忠が主上に姫をと奏上する前に、我が同胞の姫をとお薦めせねば」
「父上」
 驚いて馨君が背筋を正すと、兼長はため息まじりに、水良さまの望むと望まざるとに関わらずなと呟いた。兄上の年頃の姫といえば、前大納言の娘、緯子どのとの二の姫かしら。片膝を立てて息をつくと、絢子は思案げに額に手を当てた。
「いつかこうなるのなら、できるだけ時間伸ばしをしてあげたかったけれど…そうも言ってられないのかしら」
「いつまでも一人でいらっしゃるより、しかるべき家の姫の元へ通う方が水良さまのためにはよいのかもしれませんぞ。行忠がああ言い出したことは、かえってよい機会なのかもしれません」
「あ…の」
 あぐらを組んだ自分の膝をつかんで、馨君が口を開いた。
 絢子が視線を向けると、馨君は目を伏せて真っ赤になりながら言った。
「水良さまはおっとりとした方で、奔放な所がおありです。なればやはり同じようにおっとりと落ち着いた宮腹の姫の方が、水良さまにはよろしいのではと」
「お前…何を言い出すのかと思えば」
 困ったように言った兼長に、出過ぎたことを申し上げましたと馨君は平伏した。
「誰よりも水良さまのお側近くで仲良くしていただいているのは、お前ではないか。お前が後見せずにどうするのだ」
「私は水良さまが誰を娶られても、生涯、心を込めて水良さまをお支えするつもりでございます。水良さまのお側にいるからこそ、水良さまが望む姫をお世話したいのでございます」
「バカな…」
 大きく息をついて兼長が言うと、馨君はまた頭を深々と下げ、今日はこれにて失礼いたしますと立ち上がった。馨君! 几帳の影から絢子の声が響いた。馨君が振り向くと、絢子が目を細めてありがとうと呟いた。
 あんな風に。
 水良のいない所で。
 怒りがふつふつと腹の底にわいて、馨君はズカズカと歩いた。涙がじわりとにじんだ。どうしていつまでも今のままでいられないんだろう。何で無理に姫を娶らなければならないんだろう? 誰に迷惑かける訳じゃなし、水良がどうしたいのか自分で分かるまで、そのままでいてもいいんじゃないのか。
「馨君!」
 簀子をタタタッと早歩きで、水良が近づいてきた。振り向いた馨君に追いついて、もう帰るのかと水良は言った。どうやら藤壺に戻ってきたばかりで、馨君が来ていると女房から聞いたらしかった。眉をひそめたまま水良を見上げると、馨君は黙って頷いた。
「…どうかしたのか?」
 その表情を見て心配そうに水良が尋ねると、馨君は何でもないのですと答えた。本当か? 口をつぐんで水良が馨君をジッと見つめた。藤壺から出てきてこの表情ってことは、母上から何か言われたんだろうか。
「…!」
 ふいに馨君の手が水良の頬に触れた。
 ドキンとして水良が赤くなると、そのまま指先で水良の頬をなぞってから馨君は手を離した。また遊びにくると藤壺さまにお伝え下さいと言って、強張った笑みを浮かべると、馨君は頭を下げてまた歩き出した。

 
(c)渡辺キリ