玻璃の器
 

 宮中へ戻る兼長ともすれ違い、水良は結局、絢子からも何があったのか聞かせてもらえなかった。行忠どのと一緒になったので、少し緊張されたのでは。その場にいた女房にまではぐらかされ、水良は次の日、梨壺へ出向いた。
「…で、兄上や梨壺どのなら何か耳にしておいでではと思いまして」
 惟彰と碁を打っていた芳姫が、続きは後でと言って几帳の影に戻ると、女房の先導で水良が御簾内に入ってきた。うーん…と呻いた芳姫を見て、惟彰は小霧に聞いてみればどう?と言って笑った。
「小霧は宮中のことなら何でも知ってるからねえ」
「そうね。ねえ、呼んできてもらえる?」
 側にいた竜田に芳姫が尋ねると、竜田が分かりましたと言ってニコリと笑った。訳が分からず不機嫌そうな水良を見ると、上座に座っていた惟彰は手を打って女房に菓子と甘酒を持たせた。
「お前は女一の宮(倫子)の前では兄上ぶって大人しいふりをしているけど、私や母上の前では幼い頃のままだな。怒った顔が布久(フグ)のようだ」
「兄上は最近の馨君の様子をお知りにならないから、そんな風におからかいになるのです」
「この前、梨壺にいらした時も少し元気がなかったようですけど、兄上のことだからまたいじきたなく悪いものでも食べたのかしらと思ってましたわ」
 芳姫が言うと、確かにあげたものは何でも口になさるからねえとおかしそうに言って惟彰は笑った。そんなことじゃないんだ。言いたいけれど黙ったまま水良が腕を組んでいると、局で休んでいた小霧が衣の裾をさやさやと鳴らしながら中へ入ってきた。
「お呼びと伺いましたが…まあ、水良さま、お久しゅうございます」
「小霧、昨日藤壺で兄上たちが何の話をしていたのか知らない?」
 挨拶もそこそこに芳姫が小霧に尋ねると、小霧は少し考えてから答えた。
「権大納言行忠さまと兼長さまが同席されて、何やら水良さまのご婚儀の話をされていたとか」
「水良の?」
 驚いて尋ね返した惟彰に対して、水良はやっぱり…と黙り込んだ。ご元服の話に合わせてのことかしらと芳姫が言うと、小霧は芳姫を見ながら頷いた。
「行忠さまが突然、ご正室さまとの三の姫を水良さまの添臥しにと仰られましたので、行忠さまがお帰りになられた後、兼長さまと藤壺さまが、前大納言家のお方さまと兼長さまの二の姫を水良さまにどうかと仰られて…」
「まあ! 緯子さまの二の姫と?」
 苦々しい顔で芳姫が言うと、あの二の姫さまでございますわと小霧はニッと笑った。前大納言家の二の姫とは、そんなに問題のある姫なのかと惟彰が尋ねると、赤くなって黙り込んだ芳姫に代わって小霧が答えた。
「緯子さまの二の姫さまは芳姫さまより三つほどお年上で、とても恥ずかしがりやでいらっしゃるんです。何度か三条邸に遊びにいらしたことがあるんですが、芳姫さまが双六をしようと仰っても雛で遊ぼうと仰っても、もじもじなさって一言も声をお出しにならないのです」
「おかげで私は一日中、二の姫さまのご機嫌取りでへとへとで、一番気に入りだった雛まであげて、もう泣きたくなりましたわ。その時ばかりはさすがにありがとうと言って下さって、報われましたけれども」
 脇息に頬杖をついて芳姫がため息をつくと、惟彰が声を立てて笑った。つられて水良もクスッと笑うと、小霧が袖で口元を隠して笑いながら言葉を続けた。
「それを覚えておいでだったのか分かりませんが、馨君さまは水良さまと緯子さまの二の姫さまとのご縁談には反対のご様子だったようですわね」
「え、本当に?」
 水良が顔を上げて尋ねると、小霧は頷いた。
「おっとりとしたご性質の水良さまには、やはり血筋のよい宮腹の姫君の方がよかろうと馨君さまが仰ったとか。藤壺さま付きの女房がもう舌なめずりせんばかりの勢いで、馨君さまを褒めちぎっておいででしたわ。昨今、出世欲に取りつかれて我が娘を我が姫をという公達ばかりが藤壺を訪れる中、さすが水良さまを一番に思って下さる筒井筒の君ですわと、ずいぶん女房の間でお株を上げられたようですわよ」
「水良が一番とは、聞き捨てならないなあ」
 苦笑する惟彰の隣で、水良が黙り込んだ。馨君が、宮腹とはいえ他の姫を娶れと…。目を伏せた水良が腕を組むと、惟彰は甘酒を口に含んで少し考えてから言った。
「それなら、兼長どのの筋にも宮腹の姫はいよう。兼長どのの異腹の姉君で、おじいさま(白梅院)の弟宮が娶られたという方がいただろう。今は桃園に住んでおられるが、確か私たちと同じ年頃の姫君がいたはずだ」
「それなら私も存じておりますわ。水良さまよりは少しお年が上でいらして、帚木(ははきぎ)の姫と呼ばれているとか」
「へえ、興味深いね」
 笑って言った惟彰に、春宮さまのご興味はお広くていらっしゃるのねと拗ねたように言って、芳姫は脇息から身を起こした。そういう意味じゃないよ。あわてて弁解する惟彰を見てバカバカしいと息をつくと、水良は帰りますと言って立ち上がった。
「兄上」
「え?」
 慌てふためいた惟彰が赤くなって水良を見上げると、水良は少し怒ったようにやはり顔を赤くして言った。
「少し…宇治へ参りたいと思います」
「宇治へ? また急だな。それなら伯父上の法衣など用意させよう。持って行ってくれるか」
「今すぐ参りますから、そんな暇などありません」
 ムッとして答えると、水良は怒ったように御簾をめくって簀子へ出て行った。小霧と顔を見合わせると、芳姫が心配そうに囁いた。
「水良さま、何かお悩みのことでもあるんでしょうか。いつもおっとりとした水良さまらしくありませんわ」
「…そうだな。今すぐなど無理だろうに。日が暮れてしまう」
 答えて惟彰が揺れる御簾を振り向いて見ると、芳姫もため息をついて同じように水良が行ってしまった方を眺めた。

 
(c)渡辺キリ