水良の姿が消えたと藤壺で騒ぎになったのは、戌二つを過ぎた頃だった。
まだ侍従の詰め所で仕事をしていた馨君は、知らせにきた舎人(とねり)の言葉に血相を変えて内裏へ向かった。すぐに一人でどこかへ出かけてしまうとはいえ、藤壺の女房にも知らせずにいなくなることはさすがになく、珍しく正体をなくしおろおろするばかりの絢子と、清涼殿にいる時に同じように知らせを受けた兼長がすでに座についていた。馨君が息を弾ませてどういうことなのですかと尋ねると、青ざめて平伏していた朝顔が申し訳ありませんと涙声で呟いた。
「一人で梨壺へ行くと仰せになった後、藤壺へ戻られずそのままお姿が見えないのでございます。内裏内はすべて探させましたが、どこにも姿が見えず…」
「どこかにいるんじゃないか。門より外に出るとなれば、誰か姿を見ていよう」
真っ赤になって馨君が尋ねると、失礼つかまつりますと簀子から時の右衛門佐の声が響いた。馨君を始め座の全員がそちらへ視線をやると、時の右衛門佐が連れていた左馬頭が恐れながら申し上げますと声を震わせた。
「水良さまらしき童姿の御方が、二刻ほど前に小舎人(こどねり)を一人つれて馬で出て行かれたとの報告がございました」
「何! 誰も咎めなかったのか!」
兼長が立ち上がると、申し訳ございません!と顔を真っ赤にして左馬頭が頭を下げた。
「馬寮御門(談天門)より、ほどなく戻ると仰せになられて出て行かれたそうでございます。みなには言うなと口止めされたとのことで…」
簀子にめり込まんばかりに額をすりつけ頭を下げる左馬頭に、藤壺がため息をついて、黙って内裏を出るなどこれまでなかったことなのにと呟いた。その時、梨壺の女房が騒ぎに驚きながらも簀子を渡り、御簾そばに平伏した。
「春宮さまが、藤壺が騒がしいようだが何があったのか聞いてくるようにと仰せでございます」
「今、それ所じゃないのよ。出直しなさい」
絢子が怒ったように答えると、しかし…と言って女房は泣き出しそうな表情をした。兼長が思いついて、そなた梨壺で水良さまをお見かけせなんだかと尋ねると、女房は平伏したまま答えた。
「夕餉の前においでになられました。春宮さまや芳姫さまと水良さまのご元服の話をされた後、宇治へ行くと仰られてお帰りになられました」
「宇治!?」
思わず立ち上がって絢子が言うと、女房は絶え入らんばかりに思わずお許し下さいませと口走った。
「まさかこちらには言わずに宇治へ下られたとは、誰も知らなかったのだな。よいから、もう下がれ。春宮さまには庭に野犬が出たがもう捕まえましたとかなんとか言うて、ご心配になられぬよう伝えるのだぞ」
「は、はい!」
あわててまた頭を下げると、女房はあたふたと梨壺へ戻って行った。宇治…なぜ宇治へ。眉を寄せた馨君を見ると、時の右衛門佐が恐れながらと落ち着いた声で言って顔を上げた。
「申してみよ」
兼長が懐紙で額の脂汗を拭いながら促すと、時の右衛門佐は幾重にも重なった几帳の奥にいる絢子へ視線を向けた。
「先日、水良さまが会恵さまの所へ主上から賜った法衣を届けにいったという話を、水良さまから直接耳にしてございます。会恵さまとは気が合う様子で、また行きたいと仰っておいででしたから、宇治なれば会恵さまの所へお寄りになるかもしれません」
「…ふむ、小舎人を連れておれば、馬でも時間はかかろうな」
「私の従者に宇治出身の者がおりますので、案内させて共に馬で飛ばせば会恵さまの所で追いつけるやもしれません」
「行ってくれますか?」
几帳の奥から絢子が言った。すぐに出発いたしましょう。時の右衛門佐がそう言って立つと、馨君も立ち上がった。
「私も行きます!」
頬を真っ赤にして、馨君は振り向いて几帳を見た。隣にいた兼長が、馨君の袖を引いてそれはならんと小声で囁いた。夜になれば京内でも盗賊や妖怪のたぐいが横行し、治安はきわめて悪かった。眉を寄せて袖を取りかえすと、馨君は兼長を見上げて言った。
「私とて馬には乗れまする。右衛門佐どのが行くなら私も」
「…なれば、三条邸に寄って腕の立つ熾森と宗近を連れてゆけ。よいか、絶対に無理をしてはならんぞ」
「分かっております。行きましょう」
時の右衛門佐に声をかけて馨君が行こうとすると、几帳の奥から水良をお願いと絢子の声が響いた。一瞬、立ち止まって振り向くと、絢子を安心させるようにニコリと微笑んで頷いてから馨君は右衛門佐と藤壺を出た。
|