玻璃の器
 

 四月一日の衣替えが終わると、すぐに賀茂祭が執り行われた。
 上賀茂、下鴨両神社で行われる賀茂祭は、牛車や冠などに葵の葉を飾ることから葵祭とも呼ばれ、特に当日は賀茂社に参詣する賀茂斎院や勅使が大行列となって一条大路を練り歩き、それを見るために貴族、皇族を始めとした多くの牛車が出て、さらには徒歩の庶民までもが大勢見物に訪れた。祭の規模もさることながら、それを見物に来る牛車も出し衣で飾り立てられ、年に一度の華やかな行事となっていた。
 大納言である父兼長を始め、権大納言行忠、現左大臣の息子である近衛中将などの勅使に加え、随身を伴って進む行列を前に、葵祭を見れば気も晴れるだろうと、お忍びで女車に乗り込んだ絢子と倫子内親王、芳姫の車に続いて、それぞれのお付き女房たちが乗り込んだ女車が何台も連なり、晴れがましい場所に相応しい格好をとそれぞれ立派に着飾った右衛門佐と馨君が舎人と共に馬で付き従ったため、勅使行列もいかばかりかというほどの綺羅綺羅しい一行となっていた。
「やっぱり、俺たちも牛車で来るべきだったかな」
 あれが主上のお気に入りの侍従の君さまかと手を合わせる者まで現れて、馨君が赤くなって囁くと、右衛門佐はニヤリと笑っていいじゃないか見せびらかしてやれよと答えた。全く、お気楽なんだから。ため息をついて、しかし藤壺さまも喜んでおられるようだからと馨君が気を取り直して背筋を正すと、場所を取り合っている牛車の中ではみ出している蛍宮家の車が目に入った。あれは確かにウチの家紋だな。牛車につけられた家紋をそばまで行って確認すると、右衛門佐は馬に乗ったまま車に声をかけた。
「そこにおわしますのは我が姉君か?」
 ふざけて右衛門佐が尋ねると、車の中からおろおろとした声が響いた。
「困ったわ。今年は去年よりもずっと人出が多いようで…母上は気分がすぐれないというので、一人で出てきたのだけれど」
「姉君が男であれば、馬に乗せて差し上げますのに。どうぞこちらへ。紫の御方(絢子)のおそばならば、みなも遠慮して少しは空いておりますよ」
「まあ! そんな恐れ多いこと、聞いただけで胸が潰れますわ。私はここで十分よ」
「右衛門佐どの!」
 なかなか戻ってこない右衛門佐に気づいて、馨君が同じように馬に乗ったまま近づいて声をかけた。馨君、と右衛門佐が呼ぶと、牛車に付き従っていた従者たちが慌てて頭を下げ、突然の馨君の訪れに驚いて萩の宮姫は口をつぐんだ。以前から寝殿で笛や笙の音が響いていたけれど、それを弾いていたのがこの御方なのだわ…。麗しいと噂に高い馨君を覗いてみたい好奇心と、特別美しくもない自分の器量に恥ずかしさが混ざって、女車の中で萩の宮姫は身を起こしたり伏せてみたりと焦って赤くなった。
「え、萩の宮姫?」
 外で馨君の声が響いて、同乗していたお付き女房の越知がしっかりご返事なさいませと言って萩の宮姫を支えた。そんなこと言われても…と扇を開いて息をもらすと、萩の宮姫は消え入るような声で答えた。
「あのう…このような晴れやかな祭の日に、あなたさまのように輝かしいお姿を拝見することができて、生きた心地もなく…まるで浄土へ参ったかのような清々しい心持ちでございます」
「姉上、禁句、禁句!」
 慌てて右衛門佐が言うと、越知が気づいて姫さま!と声をかけた。賀茂祭は神祭で、祭の間は忌み言葉や仏言葉を使うことは禁じられていた。真っ赤になった萩の宮姫が、どうして私ってこうそそっかしいのかしらと絶え入らんばかりに突っ伏していると、牛車の外から馨君の優しい声が響いた。
「私も、蛍宮家でのひとときは、まるで仏の使いが天より舞出てこられるような心持ちがいたしております。萩の宮姫さまは蛍宮さまの手ほどきにて、琵琶が達者と伺っております…いずれ、月の美しい夜には宮姫さまと音を合わせてみとうございます」
 笑いながら言った馨君は、自分よりも四つも年下とは思えないほど堂々として、その声色は暖かく、萩の宮姫は返事も忘れてボーッと馨君の声の余韻に浸ってしまった。こ、光栄に存じます。いずれお手合わせを、と越知が代わりに答えると、馨君は馬で牛車がわずかに空きそうな場所へ移動し、すまないが少しだけ車を詰めてはいただけないかと声を上げて頼んだ。
「車を侍従の君どのの方へ!」
 右衛門佐が馬で従いながら従者に命じると、萩の宮姫を乗せた女車が再びゴトリと動いた。爽やかな若楓のかさねの出し衣をした車は、馨君の所まで移動してそこで止まった。
「あの…ありがとうございます」
 萩の宮姫が言うと、馨君はいえ、と答えてにこりと笑った。また絢子たちの乗っている牛車の元へ戻る馨君の乗る馬の蹄の音を聞きながら、萩の宮姫はぼんやりとさっき聞いた馨君の声を何度も記憶に蘇らせた。

 
(c)渡辺キリ