玻璃の器
 

 賀茂祭が終わると雨が降り続いて、衣替えをしたばかりだというのに肌寒い日もあり、その日、いつもより一枚多く衣を着込んで馨君は参内した。今朝、兼長が微妙な気候が続いて体調を崩した老年の左大臣を見舞いに行ったことを馨君が主上に告げると、主上はため息まじりに答えた。
「そうか、左大臣も前々から腰が痛いだの肩が痛いだの言っておられたからなあ。馨君、そなたも左大臣の所へ見舞いに行って、元気づけてあげておくれ」
「はい。今日、左大臣どののお好きな水菓子などを持って行こうかと思っております」
「そうか」
「恐れながら主上、私も義父、行忠より左大臣どのの見舞いに行くよう命ぜられております。馨君も行くなら共に」
 その場にいた権大納言行忠の娘婿、柾目が柔らかな笑みを浮かべて奏上した。柾目は前式部卿宮の息子で、母親も行忠の縁続きの権大納言派だった。馨君がそれなら共に参りましょうとにこやかに答えると、そばにいた参議の方が怪訝そうな表情をした。
 馨君は政治の派閥や策略というものをお気になさらない、その大らかさが長所なのだなあ。袖の内で笑って、昼の御座に座った主上は馨君の声に同じようににこやかな笑みを浮かべて答えた。
「若い人たちが共に行けば、場も華やいで左大臣も元気になるだろう。そうだ、馨君。最近、春宮が少し梨壺に籠って鬱々としておられるようだから、忍んで連れて行ってやってくれまいか。左大臣なら春宮が子供の頃から可愛がってくれているし」
「分かりました。それでは退出後、梨壺へ寄って行きましょう。柾目どの、よろしくお願いします」
 小声で言った主上に馨君が頭を下げると、柾目は手に持った笏(しゃく)の内で微笑んだ。以前、芳姫の裳着の後宴で会ったことを思い出すと、そう言えばあの時、柾目どのと酒を飲んでいたはずなのにどうなったんだろう…と考えて馨君は首を傾げた。
 午後、賀茂祭の準備でたまっていた雑事を片づけて中務省を出ると、馨君は急いで梨壺へ向かった。柾目どのはもう来てるだろうか。馨君が早足で内裏に入ると、先触れの女房が馨君の息を乱した姿におかしそうに言った。
「そう急がずとも、春宮さまはお逃げになったりしませんよ」
「しかし、お待たせしてはいけませんので」
 馨君が必死に言うと、女房はクスクスと笑いながら馨君を先導した。女房に御簾を上げてもらい馨君が中に入ると、柾目が先に来ていて馨君を見上げた。
「やあ、今、春宮さまとあなたの話をしていた所ですよ」
 柾目が言うと、上座に片膝を立てて座っていた惟彰は、脇息にもたれてうっすらと笑みを浮かべた。
「柾目どのがあまりに馨君を褒めるので、私はどう答えていいか分からずにオロオロしていた所だ。あなたのよい所は、私だけが知っていればいいと思っているような度量の小さい男だからね、私は」
 惟彰が言うと、柾目は秘してこそ香り高い花となりますゆえとかすかに笑みを浮かべた。何言ってるんだか。呆れたように参りますかと馨君が声をかけると、惟彰は立ち上がってゆこうと答えた。

 
(c)渡辺キリ