玻璃の器
 

 牛車を二つ、一つは柾目のために用意したのに。
 馨君の後に続いて乗り込んだ柾目は、片膝を立てて座ると、年下ゆえに上座を譲る馨君に構わぬと言って懐から蝙蝠(かわほり)を取り出した。牛車がゴトリと音をたてて滑り出すと、一番前に同じように膝を立てて座っていた惟彰は柾目から視線をそらして外を覗いた。
 この二人って、仲悪かったっけ?
 侍従から昇進して弾正宮(だんじょうのみや)を務める柾目は、先々帝の親王である前式部卿宮を実父に持つ皇族で、今式部卿宮が職を辞せば次の式部卿宮になるだろうと言われていた。権大納言行忠が主上に入内させるつもりで育てていた一の姫が、石山詣での際に母君のお伴で来ていた柾目を見初めて婿に迎えたという話で、柾目はそれに見合うだけの外見と優雅な嗜みや立ち居振る舞いを持ち合わせていた。次代の主上となる惟彰にとっても行忠を継ぐ婿君である柾目は無視できない存在で、惟彰の添臥しである濃姫とも近しい柾目は、馨君にとっては年齢は違えどライバルとも言える男だった。
 とはいえ、温和な性格の馨君は、芳姫の裳着の後宴で行忠や柾目と話してから、兼長ほど権大納言家を敵対視している訳ではなく、折々に触れて教えを乞う姿勢を取っていた。それが政治の場を平穏に保つ手段でもあると考えていたのである。十五歳になった今でも愛らしい顔立ちの馨君に、若輩ゆえ…と頭を下げられると行忠も悪い心持ちはしないのか、何かと馨君を心に留め、同じ位階の若者なら馨君をと奏上して仕事に起用してくれたりする。
「あの…」
 とにかく臣としてこの二人が気まずい状態ではまずかろうと、まさか自分が原因になっているとも知らずに馨君が声をかけると、惟彰と柾目は同時に馨君を見た。どちらに話しかけていいか分からず馨君が躊躇していると、年の功か柾目の方が態度を軟化させて、惟彰に一歩譲った。湿気の多いこの季節に狭い牛車の中、男三人が顔を突き合わせている状況にムッとしていた惟彰も、柾目の気遣いに気づいて視線を伏せたまま馨君を促した。
「柾目どののご正室は、宣耀殿さまの姉君と伺っております。私は行忠どのの一の姫さまにはまだお目にかかったことはありませんが、やはり宣耀殿さまのように気高くお美しい方なのでしょうか」
 無口でプライドが高いとは言いがたく、馨君が言葉を選びながら尋ねると、柾目は夫婦仲の上手くいっていない一の姫のことを思い出したのか、美しいとはいえあなたには及ぶまいとあっさり答えた。噂はすでに聞いていたのか、その話題は…と蝙蝠の内で目を閉じた惟彰には気づかず、馨君は続けて尋ねた。
「先日、左大臣どのの元に伺った際に、左大臣どのの一の君、頭中将さまが昔行忠どのの一の姫さまのお噂を聞いて文を出したけれど、行忠どのはその頃は入内させようとお考えで、父君からも本人からもすげなくされたとか仰っておいででしたよ。それほどの姫なら、ご教養高く、素晴らしい姫君なのでしょうねえ」
 柾目の正室と思えばこそと褒めちぎる馨君に、押し黙って柾目は閉じていた蝙蝠を開いた。初めは黙っていた惟彰も、笑いを堪えて顔を背けた。春宮さまもお意地が悪うございますな。柾目がボソリと言うと、惟彰はすまぬと素直に謝ってからきょとんとしている馨君を見た。
「そなた、天然か。それとも天然を狙って相手を弱らせる凄腕の持ち主なのか?」
「え?」
 馨君が尋ね返すと、黙っていた柾目がブッと吹き出した。失礼と言って咳払いをする柾目を見ると、堪らず惟彰はあははと声を上げて笑った。どういうことですか?と馨君が尋ねると、惟彰は笑いを収めて横目で馨君をチラリと見た。
「恋は輝ける日のごとく、情は欠けたる月のごとし。まあ、夫婦間のことなど根掘り葉掘りと聞くものではないということだな」
「私は別に…」
「よいではないか。柾目どのはご正室の他にも大勢、思い人をお持ちのようだ。突けば蛇が出るような薮をあなたには見せたくないのだろう?」
「父上は浮き名も雅の心得と励んでおられましたが、私は違いますよ。どの恋もかけがえのない宝なのです。春宮さまのように」
 柾目の言葉に、フッと視線を伏せて惟彰は蝙蝠で口元を隠した。言ってくれるな。そう呟くと、また前方からそっと外を覗いた。左大臣さまのお邸でございます。熾森の声が響いて牛飼い童や舎人が牛を車から外すのを見ると、惟彰は左大臣がお待ちかねだと言って蝙蝠を懐に挿した。

 
(c)渡辺キリ