玻璃の器
 

 熱を出して臥せっていた左大臣も、午前中に大納言兼長の訪問を受け、おまけに夜には春宮の見舞いに寝てはいられぬと体を起こしていた。さすがに直衣に着替える余力はなかったのか、白い袿を重ねて着、烏帽子をかぶった状態で左大臣は頭を下げた。
「春宮さまのおみ足を運ばせるとは…申し訳ございません」
「申し訳ないと思うのなら、早く元気になって参内しておくれ。みな、左大臣が元気になるのを待っておる」
 下座に馨君と柾目が控える中、春宮が床のそばに膝をついて左大臣の痩せた手を握ると、左大臣はもったいのうございますと袖で涙を拭いた。思わずもらい泣きする馨君を横目で見て、柾目が声をかけた。
「義父の行忠も、何をおいても真っ先に左大臣どのの見舞いに駆けつけたいと申していた所ですが、ただいまは宣耀殿さまの子宝祈願に寺社詣でをしておられますゆえ、名代として私が参りました」
 行忠なら…今朝、内裏で見かけたぞ。感激している左大臣には悟られないようわずかに眉をひそめて惟彰が黙っていると、柾目はお早くご快癒なされますようお祈りしておりますと頭を下げた。馨君もあわてて一緒に頭を下げると、惟彰は黙り込んだまま柾目をちらりと見た。
 子宝など授かる訳がないだろう。まだ契ってもいないのに。
 それを知っていながら、行忠の不参の理由に挙げるとは。とにかく元気を出しておくれと言って左大臣の手を離すと、惟彰は内裏から持ってきた薬や水菓子を女房に運ばせるよう頼んだ。このような老い先の短い爺にお優しい心遣いを…と後は言葉にならない左大臣を見ると、心が痛んで惟彰は左大臣の老いた肩を抱いた。
 今左大臣は藤原家出身で、同じ藤原でも行忠より兼長の方が縁続きだった。馨君も参内するようになってから目をかけてもらうようになり、穏健派の左大臣に父兼長とは違う政治のあり方を学ぶことも多かった。左大臣の方も、素直で愛らしい馨君を自分の孫のように可愛がっていて、惟彰と共に左大臣の催す管弦の宴に招待されたことも何度かあった。
 それゆえに、左大臣の病を得た姿は哀れを誘い、まるで実の祖父の病床に駆けつけたような気がして馨君は袖で涙を拭った。春宮さま。白髪のまじった眉を下げると、左大臣は惟彰の肩にもたれたまま口を開いた。
「私がこのような状態では、政治の乱れ、世の乱れにもつながりまする。私はもう老齢の身。かくなる上は職を辞して、後任を兼長どのにお任せしとうございます」
「…! 左大臣、それは…」
 驚いて惟彰が尋ね返すと、左大臣は身を起こして惟彰を見上げた。
「これはずいぶん前から室(妻)とも話しておりましたことでございます。私の息子どもはみな弱輩、しかし兼長どのはお若いながらご聡明な方。あの方ならば私も職を辞して後任を任せ、安心して兼ねてより望んでおった出家の道へ向かうことができまする。体調が少しでもよくなれば、参内してその旨を主上や参議のみなさまにお伝えしようと思っておりました…」
「左大臣どの、それは兼長どのには」
 柾目が膝を進めて尋ねると、左大臣は頷いてからまた口を開いた。
「まだ私の快癒を信じておりますと言うておりました」
 老いた身には嬉しい言葉でございました。顔をくしゃくしゃにして笑みを浮かべた老左大臣に、惟彰は兼長もそう言っておるのだからしっかり休んで早く参内しておくれと告げた。半刻ほど話して、あまり左大臣を疲れさせてはいけないからと左大臣家を辞すと、乗ってきた牛車に乗り込んだ惟彰を見て、柾目は空のままついてきていた自分の牛車に榻(しじ)を出させた。
「それではまた明日、大内にてお会いいたしましょう」
「柾目どのはこれから権大納言家へ?」
 馨君が尋ねると、柾目はにこりと笑って私は愛しい人の元へと答えた。上手くはぐらかしたな。ああ言えばどうとも取れる。馨君が兼長に今日の話をしても、柾目から行忠に今夜、兼長の左大臣昇進が伝わるかは分からんだろうな…。牛車の中で外に立つ二人の会話を聞いていた惟彰は、壁にもたれて物見からそっと二人を見た。馨君はもう少し疑うことを覚えねば。柾目は結局、権大納言側の人間なのだから…兼長が一気に左大臣に昇進しては、私が即位した時、妃の立場にも大きく関わってくる。宣耀殿よりも梨壺(芳姫)が先に中宮に立つとなれば…同じ皇子を持ったとしても、おそらく東宮に立つのは梨壺の皇子だろう。
 気づいてるのかな。気づいてないのだろうな…。それではとにこやかに言って、馨君は柾目が車に乗るのを見届けてから、榻を踏んで馨君も牛車に乗り込んだ。惟彰を送って行くために内裏の方へ車が動き出すと、惟彰は壁にもたれたまま息をついた。
「馨君、兼宣旨(けんせんじ)はそなたが思っているよりずっと早いかもしれない」
「春宮さま」
 馨君が驚いて顔を上げると、惟彰はついた片膝に腕を乗せて馨君をジッと見つめた。
「左大臣は先年、末の姫君を病で亡くされてから、ずっと主上にも出家の意向を伝えていたんだ。他の姫君はすでに兄弟たちが後見を務めておられるし、若くして亡くなられた姫君を静かな庵を設けてそこで弔いたいと仰っていた」
「…そうでございましたか。姫君を亡くされたという話は父上から聞いておりましたが」
「それを父上がなだめすかしておったのだが、季節の変わり目で思いがけず肌寒い日が続いたゆえ、体にも堪えたのだろう…大内一の穏やかなお人柄なれば、いつまでも父上の、ひいては私の相談役として大内に留まってほしかったのだが」
「お察し申し上げます、惟彰さま」
 しゅんとして馨君が答えると、惟彰はふいに馨君の華奢な手をつかんだ。手を触れられるのにはもう慣れたのか馨君が視線を上げると、惟彰は馨君の目を覗き込んだ。
「そなたは…ずっと私の元にいてくれるな、馨君。梨壺(芳姫)のこともあるが…それだけではない。そなたの意志で私と共にいてほしい」
「もちろんでございます、惟彰さま。私は天朝の臣でございます。あなたさまが春宮さまなれば、心を込めてお仕えいたします」
 馨君が真面目な顔で答えると、惟彰はフッと笑った。その笑みはどこか自嘲的で、馨君が何か気に留めておられるのだろうかと眉を寄せると、惟彰は手を離してまた外を眺めた。
「幾年に…鳴くや鶯、花の影…花はほころんで、今にも咲き誇らんとしているというのに」
「…あなたさまには、届かぬ花などないでしょう」
「あるさ」
 短く言い切ると、惟彰は黙り込んだ。その精悍な横顔を眺めると、身分の低い姫に心を移しておいでなのか、まさか惟彰さままで臣籍降下をなさりたいなどと言い出すのではないだろうな…と馨君は眉を寄せた。その顔をチラリと見て笑うと、惟彰はふいに手を伸ばした。
「…惟彰さま?」
 足から手を滑らせて腰を抱くと、惟彰は馨君の華奢な肩に自分の顎を乗せてその体を抱きしめた。そなたは何も心配せずともよい。その柔らかな頬に自分の頬を押しつけて耳元で囁くと、驚きで硬直した馨君の体を抱き寄せて自分にもたれかけさせ、馨君の香の匂いに酔ったように惟彰は呟いた。
「三条邸の庭で桜の精が落とした白い袿は、今も持っているよ」
「…お気づきになられていたんですか」
 身を起こすこともままならず赤くなって馨君が尋ねると、惟彰は両手で馨君の体を抱えてその顔を覗き込んだ。
 そなたが姫なら、私は東宮に生まれついたことを心の底から感謝しただろうな。牛車に揺られながら馨君の肩を抱きしめて、惟彰は苦笑した。もし姫君なら…何を置いても、そなたを添臥しに望んだだろうに。
「春宮さま、あの話は父上には内緒にしておいて下さいよ。それでなくても父上から大目玉を食らったのに、春宮さまにも見られてたなんて知れたらまた怒られます」
 馨君が惟彰の肩にもたれたまま言うと、惟彰は声を上げて笑った。よかった、少しはご気分も晴れたようだ。馨君がホッとして目を閉じると、惟彰は腕を回して馨君の体を抱いたまま自分の手首をもう片方の手でつかんだ。

 
(c)渡辺キリ