水無月に入ると、ようやく左大臣は参内するようになった。それでもまだ全快とは言えない左大臣を右大臣と共に補佐する兼長の姿を見て、左大臣どのが大納言どのに職を譲るのも間近かという噂が宮中に流れた。
「ここは薔薇(ソウビ)が美しゅうございますな」
珍しく行忠の伴ではなく一人で宣耀殿を訪れていた柾目が、廂から庭を眺めて呟くと、几帳の奥から濃姫の声が響いた。
「唐渡りの花が見とうて植えさせたが…美しいばかりで風情がないと」
「春宮さまのお気に召す花を植えるのは、難しゅうございますな。今は三条邸の白い梅を愛でておられますゆえ」
「それも、早々と梨壺へお移しなされたではございませぬか。最近は藤壺でも鼻持ちならぬ匂いをさせておりますわ」
濃姫の女房が悔しそうに言うと、お人払いをと柾目が呟いた。何ゆえ…と言いかけた女房を押さえると、風見以外は下がっておくれと濃姫が告げると、渋々と女房たちが下がっていき、柾目は廂に一人残された。
「…宣耀殿さま」
「大納言の昇進の噂は、父上がいくら隠されようともわらわの耳まで届いておるわ」
「今は下手にありますゆえ、私どもにそれを阻止するだけの力はありませぬ。宣耀殿さまにはご不快な日々が続きましょうが」
「…!」
脇息にもたれていた濃姫が怒りに口をつぐむと、柾目はふいに立ち上がって御簾をめくった。あまりに堂々とした仕草に息をのんで、それから我に返ると、一人残っていた風見が何をなさいます!と声を上げた。ツカツカと歩み寄って几帳をどかせた。それでも高い気位を保ってゆったりと座っている濃姫を見ると、柾目は嫣然と微笑んでその場に控え、濃姫の華美な衣の裾をつかんだ。
「宣耀殿さま。私が申し上げるまでもなく、我が一門の命運は第一皇子誕生にかかっております」
「わざわざ嫌みを言うために、人払いをさせたのか。子宝祈願なれば春宮さまに申し上げればよかろう」
「権大納言家で、三の姫さまと水良さまのご婚礼を進める動きがあります」
朱子と? 濃姫が驚いて尋ね返すと、柾目は頷いた。それを、なぜわらわに。濃姫が怪訝そうに尋ねると、柾目は薄い笑みを浮かべて答えた。
「もし、惟彰さまに皇子が生まれねば…次の東宮には誰がお立ちになります?」
目を見開いて濃姫が柾目を見上げると、そばにいた風見は青ざめてそのようなこと…!と袖で顔を覆った。濃姫の衣のそばに座ると、柾目は言葉を続けた。
「水良さまのお母上は亡くなられたとはいえ、祖母君も伯母宮もまだご存命でございます。どちらも尼君になっておられますがね。前太政大臣の北の方である祖母尼君に託され今は藤壺さまがご後見役をされておりますが、兼長どのが左大臣に昇進なされば、春宮さま共々、兼長どのがご後見申し上げるようになるでしょう」
「…! 何を言いたいのだ、柾目!」
思わず立ち上がって顔を赤くした濃姫に、柾目はその場に控えて視線を伏せたまま薄笑いを浮かべた。血の気の多い姫さまだ。目を細めて面を上げると、柾目は濃姫を見上げた。
「私はあなたさまが入内なされる以前から、あなたさまをお慕い申し上げておりました」
あまりにも突然の告白に、毒気を抜かれて濃姫がだらりと腕を下ろした。何を…濃姫が呟くと、柾目は立ち上がって濃姫の手を柔らかく握りしめた。
「それゆえに…今のあなたさまのお姿を見るのは辛いのでございます。あなたさまがこのように憂いた声色をされるたびに、春宮さまとのお噂を耳にするたびに…心苦しく穏やかならざる日々を送っているのです」
「バカな…そなたは姉上の婿君ではないか」
「このようなことを口にしたと知れれば、私は死罪となりましょう。それでも言わずにはいられなかった。あなたさまを愛していればこそ」
手を取りかえそうとした濃姫を逃がさないように今度は腕をつかんで、柾目はそのまま濃姫を抱きしめた。初めての力強い男の手の感触に濃姫が息を飲むと、柾目はすぐに手を離してその場に平伏した。申し訳ありませぬ…宣耀殿さま。呟いて深く頭を下げると、呆然としている濃姫と風見をチラリと見て、柾目は立ち上がった。
「せめて私の心を伝えねばと…乱暴なことをいたしました。宣耀殿さま、あなたさまが春宮さまの皇子を望まれるお心をお恨み申し上げながらも、やはり権大納言家のため、ひいては宣耀殿さまのためと思って私はあなたさまにお仕えする所存でございます」
「あ…」
するりと御簾から外へ出て行った柾目の気配が遠のくと、濃姫がその場に崩れ落ちた。宣耀殿さま! 誰か!! そばで青ざめて震えていた風見があわてて濃姫の体を支えると、真っ赤な顔をした濃姫は、その瞳を潤ませて何ゆえに…と呟いた。
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