玻璃の器
 

 水無月も半ばを過ぎた頃、左大臣の致仕が決まり、大納言兼長が兼宣旨を受けた。
 その五日後、正二位の位を賜り左大臣として立った兼長は、太政大臣のいない宮中で実質的な一の上となった。同時に関白も兼任し、宮中の殿上人たちはみな兼長を三条のおとどどのと呼びはじめた。関白となった兼長の北の方である楽子も北の政所の宣旨を受け、三条邸は一気に慌ただしくなった。
 当然、その一の君である馨君も、秋の除目で従五位下から一挙に正五位へ昇進するのではと噂されていた。緊張する宮中で、当事者である兼長と馨君は生来の気性のためか、どうせなるようにしかならないしとのんびり構えていた。
「馨君が近衛少将なんて。馨君の方が、よほどお守りしたくなるような花のかんばせをお持ちだというのに」
 いつものように藤壺で絢子を囲んで歓談していると、時の右衛門佐が思い出したように言った。私も最近では大人びてこられたと言われているのですよ。馨君がふくれっ面で答えると、誰に言われたんだと水良に尋ねられ、馨君は指折り答えた。
「前左大臣どのにも見舞いの時に言われたし、おばあさまの所に法衣をお持ちした時にも、おばあさまからも周りの尼女房たちからも言われたし」
「お年を召した方々ばかりだなあ。若い女房や姫君から言われたとかいう話はないのか?」
 右衛門佐がからかうように言うと、藤壺の女房たちがさざめくように笑った。馨君は時々、胸が騒ぐほど大人びた表情をされることがあるよ。水良がふいに言って、馨君は赤くなった。
「あ…今日は梨壺さまはこちらにいらっしゃらないのですね」
 あせあせと赤くなった耳をつまんで馨君が尋ねると、几帳の内にいた絢子が扇で口元を隠して笑った。
「春宮さまが堪忍袋の緒を切らしてね、梨壺どのがあまり藤壺ばかりにいるものだから、もうそろそろ戻ってきてほしいと自らお迎えに上がられたのよ」
「その時の梨壺さまのお顔は、見物でございましたねえ。春宮さまが寂しいから梨壺へ戻っておくれと仰られて、梨壺さまは耳まで真っ赤になられて、女房たちの前で何を仰るのと顔を伏せておしまいになられましたわ」
 女房の話に馨君と右衛門佐が笑った。じゃあ、今頃は梨壺で仲良く碁でも打ってらっしゃるだろうか。目を細めている馨君の顔をそっと伺うと、水良はふうとため息をついた。
 兄上の様子がおかしいこと、馨君は気づいているんだろうか。
 梨壺どのが入内された頃は、確かに梨壺どのを大切にされていたし、夢中になられていた…と思う。
 でも今は…大切にされているのは以前と同じだが、梨壺どのが藤壺にいる間に他に気になる姫でも見つけたのだろうか。時々、話しかけても上の空で、物思いに沈んでいる姿を見かける時もあるし。何となく廂から見える庭を眺めて水良が息をつくと、馨君がそれに気づいて水良に声をかけた。
「どうしました、水良さま。何かお悩みでも?」
「ん、いや。何でもないんだ」
 ごまかすように笑って答えると、水良はホッとしたように微笑み返した馨君を見て自然と笑みを浮かべた。馨君。ふいに絢子に声をかけられ、馨君が背を正すと絢子が几帳の内から尋ねた。
「東一条邸の修繕は、どこまで進んでいるの?」
 憔悴した絢子の姿を思い出して馨君が口ごもると、絢子が笑いながらもう大丈夫だから教えてちょうだいと言った。それでは…と咳払いをすると、馨君は答えた。
「雨続きでしたが、みなが頑張ってくれましたので、棚機つ女(七夕)の頃には修繕も終わりましょう。身元のしっかりした女房や従者を集めねばなりませんし、調度類も整えねばなりませんが、月見の宴の頃には住めるようになるかと思います」
「そう。水良、あなたも東一条邸へ移れば、ここにいる時のように勝手気ままという訳にはいかないわよ。佐保宮の主として立派な振る舞いをしなければ」
「…はい」
 いつもなら絢子の言葉をちゃかす水良も、今日は大人しく頷いていた。右衛門佐どの、馨君、水良をよろしくお願いします。しっかりとした声で言った絢子の言葉にあわてて頭を下げると、三人は視線を合わせて目を細めた。
「水良が佐保宮へ移ったら、私も一度ぐらいは参らねばね。楽しみだわ。雪が降らぬうちに行きたいわねえ。女一の宮(倫子)と一緒に行こうかしら」
「は、ははうえ」
 それで立ち直ったのか…と水良が几帳の内には聞こえないように小さく呟くと、右衛門佐と馨君は笑いを堪えた。女御さまもたまには羽をお伸ばしになられたいのでしょう。右衛門佐がこそりと囁くと、分かってるよと答えて水良は呆れたように息をついた。

 
(c)渡辺キリ