玻璃の器
 

   6

 兼長の左大臣昇進を祝う宴が次々と催され、一の君としては辞退する訳にも行かず、物忌みなどで外に出られない日以外は馨君も宴に出ずっぱりで、連日の二日酔いに頭を痛めていた。厳しい暑さに夏バテ気味の馨君は、重い胃を引きずるようにして宴に花を添えていた。
 右衛門佐どのは同じだけ飲んでもけろっとしてるのになあ。母楽子の気に入りの陰陽師に今日は自室からお出にならないようにと言われ、渡りに船と物忌み中の札をぶら下げ、単衣の上に薄物の袿を羽織った馨君が脇息にもたれてぼーっとしていると、側で蝙蝠を手に持ち風を送っていた若葉が尋ねた。
「馨君さま、それで弟宮さまがお住いになるというお邸の修繕は進んでおりますの?」
「ん? ああ、進んでるよ。もうすぐ完成だ。今行けば新しく削った木のいい匂いがするよ」
 馨君が答えると、若葉は蝙蝠を動かしていた手を止めて、よろしいですわねえと目を細めた。若葉とのんびり話をするのも久しぶりで、馨君が若葉の夫の話でも聞いてみようかと口を開くと、若葉の方が先にうっとりとした表情で言った。
「本当に楽しみですわ。弟宮さまがご元服なされたという噂は聞いていても、ちっとも三条邸には姿を見せにきてくれないんですもの。梨壺さまの御裳着でいらして下さったとはいえ、私の中では弟宮さまはまだ総角に萌黄の水干姿のままですからねえ」
「じゃあ、今の水良を見たら、若葉はきっと腰を抜かすよ。俺だって口から心の臓が飛び出るかと思うぐらい驚いたもん」
 実際に腰を抜かしたことは言わずに馨君が笑うと、若葉は本当でございますかと答えた。今じゃ俺よりずっと背が高いよ。馨君が付け加えると、三条邸にいた頃の水良を覚えている中年の女房が想像もできませんわねえと笑った。
「東一条邸へ移られたら、きっと弟宮さまも今よりは三条邸へ遊びにきて下さりますわね。若葉や小納言たちも会いたがっていること、弟宮さまにちゃんとお伝え下さいませよ」
「分かったよ。分かってるって」
 身を乗り出して言った若葉を見ると、馨君が少し寝るよと言って烏帽子をかぶったままそこにゴロンと寝転んだ。東門の方から、今日も祝いの品を持ってきている殿上人たちのざわつく声がしていた。三条邸のどこかから琵琶を合わせる音も響いていて、そう言えば最近、蛍宮家に行ってないなあとぼんやり考えながら、馨君は重いまぶたをゆっくりと閉じた。
 夕方になるとひぐらしが遠くで鳴き始めた。いつものように慌ただしく内裏から戻ってきた兼長が、縹色に近いような二藍の直衣を女房に脱がせながら、一の君は物忌みだそうだなと楽子に尋ねた。
「はい。今朝からずっと籠っておりますわ」
「最近、ずっと顔色が悪かったからなあ。そうでもせんと、休みたいとも言い出さん。わしの子とは思えんぐらい真面目な子だよ」
「あら、一の君は二条の方に似られたのですわ。二条の方は気丈なご性質で、義父上がお亡くなりになられた時もしゃんとしておられたではありませんか」
「そうだったなあ…」
 兼長が呟くと、女房が夕餉になさいますかと尋ねた。頼むと答えて茵に腰を下ろすと、そばに控えていた楽子はため息まじりに呟いた。
「元服してからは次々と何かしら目の回るような忙しさで、私たちも一の君をつい頼りにしてしまいましたけど…考えてみたらあの子ももう十五歳、とっくに女人に通っていてもおかしくない年頃ですのに、ついぞそのような噂は聞きませんのよ。若葉に聞いても、内裏から戻られたら夕餉を召し上がってすぐに寝てしまいますと言って…」
「若いから、眠いのだろうなあ。わしも十五ぐらいの頃は、とにかく食べて寝ていたよ。しかし、蛍宮家には時々通っているそうじゃないか」
「嫌ですわ。あれは、蛍宮さまとその二の宮さまに楽の手ほどきを受けておいでなのです。こないだ言ったじゃありませんか」
 聞いてなかったの?と言わんばかりにムッとした楽子に、兼長はあわててそうだったなあと相づちを打った。今ひとつオクテで困ったことだ。腕を組んで兼長が言うと、楽子もため息をついて宙を見上げた。
「やっぱり、私たちがどこかよい姫を探してお世話する方がいいのかしらねえ。これまでは、つい忙しさにかまけて姫探しもせずにいたけれど。私もたまあに、馨君とうちの姫をと…なんて、縁続きだったかしらと思うようなどこぞの宮家から文をいただくことがありますのよ」
「それを言うなら、前左大臣どのからも孫娘を馨君にどうかと言われているし…先日など、権大納言から倫子さまをいただくおつもりかと聞かれたわ」
「内親王さま? まあ、内親王さまはまだ十歳ではございませんか」
「梨壺さまが入内されたのは、十三歳の時だったか…。まだ少し早いな」
 ふうっと息をついて、兼長はどこかによい姫はおらんものかと呟いた。行忠どのと言えば。ふいに楽子が思いついたように口を開いて、兼長は顔をしかめた。
「三の姫を水良さまにと、藤壺さまに申し上げたそうじゃありませんか。行忠どのの三の姫さまといえばはねっかえりのじゃじゃ馬で、もう十三歳におなりになったというのに、お邸内では水干を着て走り回っておられるとか」
「…どこぞのどなたかに似ておられるな」
 兼長が言うと、楽子はプッと吹き出した。ええ、どこぞの姫君に似ておられますわね。楽子が懐かしそうに目を細めると、兼長はその姫君も今は梨壺さまなのだからと言って、夕餉の膳を運んできた女房に尋ねた。
「馨君の嫁御はどのような方がよいと思う?」
「え、一の君さまですか?」
 急に言われて驚いたのか、女房はしどろもどろになって膳を兼長の前に置いて答えた。
「やはりおっとりと優雅な方がよろしいかと思いますわ。なまじ美しい方は気位が高いような気もしますから、それよりは気だてのよい髪の長い方がよろしいかと」
「そうか。そうだなあ」
 納得したように呟くと、兼長は箸をつかんで湯漬けの碗を取った。兼長も連日の宴で胃を痛めていて、白湯をおつぎしましょうかと楽子が尋ねると、兼長は頷いて食を進めた。

 
(c)渡辺キリ