秋の除目(じもく)で、馨君は宮中の噂通り右近衛少将に昇進した。同時に時の右衛門佐も兵部省大輔になり、時の大輔どのと呼ばれるようになった。
「常陸太守!? 水良が!?」
聞き違いかと思わず尋ね返して、馨君は口をポカンと開いた。その表情を見てはははと笑うと、兼長は懐に手を入れて腕をかきながら答えた。
「本来なら国司は春の除目で発表されるんだが、佐保宮も完成したことだし、内裏を離れる前に役目につけておこうという主上のお計らいでな。とうとう役持ちだ、役持ち」
「…水良さまが常陸太守…何となく、蛍宮さまみたいにぶーらぶーらされておられるのかと…っと」
それでは蛍宮に失礼かと馨君が袖で口元を押さえると、それでは水良さまはどこへゆかれるか分からんからなと言って兼長は馨君の肩をポンと叩いた。
「これで藤壺さまも少しは肩の荷が下りるというものだ。亡き前麗景殿さまもお喜びになっているだろう。親王太守なら地方へ赴任することもないし」
ニコニコと機嫌よさそうに笑いながら言った兼長に、馨君は藤壺へお祝いに行ってきますと駆け出した。武官束帯を身につけた馨君がタタタッと走って内裏に着くと、やはり同じように水良の常陸太守着任が寝耳に水だった藤壺の女房たちが、慌ただしそうに準備を進めていた。
「馨君さまのお越しでございます」
今日は絢子ではなく水良の所へ直接行くと、水良付きの女房が御簾から中に声をかけた。あらっ? 返事がないのを不審に思った女房が御簾をめくると中は空で、庭の方からここだという水良の声が響いた。
「水良さま!」
馨君が簀子の欄干をつかんで庭を見下ろすと、大君姿の水良が馨君を見上げた。さっきまで主上に会ってたんだろうか。いつもは気楽な直衣や狩衣を着ている水良が今日は心持ちきちんとした格好をしているのを見ると、馨君はホントなんだ…と呟いた。
「本当だよ。俺もびっくりしたけどな。父上は母上たちが思ってるよりもずっと本気で、俺を佐保宮の主に据えるおつもりだ」
「あ…そうだ、藤壺さまから聞いたかもしれないけど、東一条邸の修繕が終わったんだ。調度類はうちと藤壺で揃えたし、女房たちの人選も始まってるから、月見の宴までには移れる…移れます」
後ろにいた女房に気づいて馨君があわてて敬語で話すと、水良は目を細めてありがとうと答えた。馨君のいる所へ近づくと、水良は簀子にいる馨君を庭からジッと見上げ、それからうーんと呻いた。
「女房か…俺はそれほど数はいらないって言ってるんだけど、母上がどうしてもこれ以上人数を減らす訳にはいかないって仰って。佐保宮は小さい邸なんだっていくら言っても、分かって下さらないんだ」
「そっか、それなら身元のしっかりとした女房をよい数だけお世話しようと、父上から申し上げてもらいますよ。従者も幾人か揃えねばならないし」
「従者など…馨少将どのがいれば一人で構わんよ、俺は」
からかうように馨君の真新しい武官束帯を見た水良に、馨君は赤くなった。私は主上の臣でございます。馨君が言い返すと、水良は主上には勝てないなと答えた。
「佐保宮には、明日入ろうと思う」
「…は?」
馨君が驚いて聞き返すと、水良はいたずらっぽく笑って馨君を見上げた。
「昨日、陰陽寮に占ってもらったら、明日を外しては佐保宮へ入るのによい日がもう霜月までないらしいんだ。主上にはもう許可をいただいたよ。女房が全員揃っていなくても大丈夫だろうと父上も仰っていたし、これから母上に申し上げて、明日の午後には佐保宮へ移ろうと思う」
「そ…っ、それは我が父上にもお伝えになられましたのか!?」
「まだ」
「…バカっ!…」
女房に聞こえないように馨君が小声で言うと、水良はははっと軽く笑った。藤壺さまにも父上にも申し上げねばっ! 来た時と同じようにまたバタバタと簀子を駆けるように早足で歩いて行った馨君の後ろ姿を見ると、水良は少し苛め過ぎたかなと目を細めて階に腰掛けた。
だって、最近あんまり来てくれないんだもん。
兼長どのの左大臣昇進や佐保宮修繕で忙しいのは分かってるけど…いつまでこうしていられるか分からないっていうのに。
常陸国守ともなれば、いつまでも独り身でいる訳にもいくまい。
さらりと言った主上の言葉に、ハメられたの?俺、と思わずふててしまった。確かに内裏を出たいと言い出したのは自分だけど…それはもっと馨君と会いたかったからだ。内裏を出れば、自分から三条邸を訪ねることだってできるから。
「分かってないんだから」
昔、幼い頃に馨君がくれた紙折りの鳥を懐の布の上から押さえて、水良はため息をついた。
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