玻璃の器
 

 藤壺で絢子からお小言を食らった後、佐保宮へ移るために内裏の方々へ挨拶回りに出かけた水良は、梨壺へ渡る前に麗景殿女御と歓談していた。麗景殿女御は前左大臣の三の姫で、内裏の女御の中でも前麗景殿だった水良の母親に縁を感じて、水良とも親しく文を交わしていた。
「明日、内裏を辞して東一条邸へ移ろうと思っています」
 水良が下座に座して深々と頭を下げると、麗景殿は几帳の奥で突然の別れにそっと袖で目尻を拭った。あまりにも急なことで、なんと申し上げてよいのか分かりませんわ。麗景殿が言うと、水良は顔を上げて答えた。
「私にとっては、藤壺の母上以外にも、内裏の女御さま更衣さまみんなが母上でございました。麗景殿さまからも優しくしていただいて、亡き母上が生きていれば麗景殿さまのような暖かなお人柄であったろうかと思っていました」
 水良が目を伏せて言うと、前麗景殿さまはきっともっとお優しい方だったろうと思いますわと麗景殿はおっとりと答えた。赤くなってにこりと笑うと、水良は麗景殿としばらく思い出話に花を咲かせた。
「まだ紅葉のように小さなお手をしてらした頃は、几帳のうちにもひょっこりとおいでになられて、水良さまは藤壺さまの御子でございましたけど、同時に内裏のみなの御子でもございましたわね。私には子がおりませんから、水良さまが私の御子ならどんなに毎日が楽しいだろうかと、いっそ藤壺さまに水良さまをいただけないかお願いに上がろうと、こちらの女房たちとも話しておりましたのよ」
「それは惜しいことをしましたね。そうすれば麗景殿の庭に咲く花は全部、俺のものだったのに」
 水良が笑って言うと、麗景殿は扇の内でほほほと笑ってから尋ねた。
「水良さまの花は、どちらに咲いておられるのかしら。内裏にはないからこそ、東一条邸へ移られるのでございましょう?」
 真っ赤になって水良がそのようなことは…と視線を泳がせると、周りの女房たちはクスクスと笑って、水良さまの花はさぞかし可愛らしいのでございましょうねえと言った。視線を伏せて照れ笑いをしていた水良は、思いきったように視線を上げて答えた。
「私の花は」
「花は?」
「私の花は、愛らしくてよく笑って…いつも私の胸を暖めてくれます。私はあの花が…とても愛おしいのです」
 目を細めて水良が言うと、麗景殿は扇の内で微笑ましく水良を見つめた。角髪姿の頃がまるで昨日のことのようなのに。麗景殿はもたれていた脇息から身を起こしてきちんと座り直した。
「水良さま…いえ、佐保宮さま。内裏での生活をお心の中にいつまでもお留め下さいませ。そして新しいお邸でもあなたさまらしく、健やかな日々をお過ごし下さいますよう。内裏より水良さまのご多幸を御祈り申し上げておりますわ」
「ありがとうございます、麗景殿さま」
 姿勢を正して頭を下げると、水良はスッと立ち上がった。もうお行きになりますの? 女房が尋ねると、水良は困ったように答えた。
「ええ、あまり長居をすると泣いてしまいそうなので。またすぐに遊びにきますよ」
 そう言って笑うと、水良はそれではと言って自分で御簾をめくって外に出た。簀子に控えて待っていた朝顔が気づいて水良を先導した。水良さま、本当は麗景殿さまが初恋なのでは?と朝顔がちゃかすように尋ねると、水良は違うよと素で答えた。
「麗景殿さまはやっぱり母上みたいな方だよ。前麗景殿の母上がどんな方か知らないから…本当の母上を思い出そうとすると、麗景殿さまが浮かんでくるんだ」
 そう答えて、水良は早く行かねば日が暮れてしまうよと後ろから朝顔を押した。おやめ下さりませ! くすぐったそうに言って、それから内裏の古参女房が前から歩いてくるのを見て二人で澄まして歩くと、女房とすれちがってからクスクスと忍び笑いをもらした。
「別れよりも新しい生活が楽しみなのは、水良さまの花のおかげですわね」
 ちらりと流し目を向けて朝顔が言うと、水良は赤くなって、そうかもしれないなと素直に応じた。あら、珍しく否定しませんのね。朝顔が驚いて尋ねると、水良は目を細めて笑った。
 梨壺へ渡ると、惟彰は澪姫と碁を打っていた。明日、行くんだって? 惟彰が碁盤から視線を上げて水良を見上げると、水良は下座に座って頷いた。
「うん、午後には。ごめんなさい、もっと早くお知らせできなくて」
「陰陽寮が言うなら仕方ないな。内裏を出ると言っても目と鼻の先だから、私は心配してないよ」
 ふふっと笑って惟彰が几帳の奥から出てくると、奥から澪姫が東一条邸の完成おめでとうございますと小さな声で言った。ありがとうございます。水良が答えると、惟彰は女房が出した円座に腰を下ろして水良をジッと見つめた。
 いつまでも子供だと思っていたのになあ。
 今はすでに同じ高さに視線がある水良を見て、それから惟彰は視線を伏せた。聞こうと思っていてずっと聞けなかった。水良、お前も白梅の君を。あぐらを組んで水良をまっすぐに見つめると、それからフッと視線をそらして惟彰は口を開いた。
「水良。お前の庭に、白梅は咲いているのかな」
「え、ああ、多分春になれば」
 水良が答えると、ふふっと笑って惟彰はそうかと答えた。なら、ぜひ見に行かねばならないな。惟彰が呟くと、水良は春と言わずにいつでも月を見にいらして下さいと言って笑った。

 
(c)渡辺キリ