藤壺から差し向けられた女房は半数以上が間に合わず、家司の目星もつかず、規模が小さいとはいえ親王が住む宮にあるまじき人の少なさで、馨君は宮中から若葉に文を書いた。
「水良さま、お久しぶりでございます」
丁寧に礼をしてニコリと笑った若葉を見ると、東一条邸の寝殿に入った水良はジッと若葉を見てから、してやられたとため息をついた。困った所を見て楽しもうと思ってたのに。佐保宮に揃った女房も従者もそのほとんどが馨君付きの者ばかりで、それならば身元もしっかりしているはずだなと言って水良はニヤリと笑った。
「考えたな、少将どのも」
「ウチの若君は聡明で通っておりますのよ。三条邸の若君付きの女房が少なくなるではありませんかとご反対申し上げましたら、どうせしばらくはこちらへ通うのだから構わないと仰って」
「…誰が」
「馨君さまが」
若葉が答えると、水良は耳まで赤くなって顔を背けた。馨君がそんなことを。まだ真新しい調度や柱に視線をやって、お美しい邸でございますわねと若葉が言うと、水良は簀子に出て庭を眺めた。
「うん。来年が楽しみだ」
寝殿の庭には白梅が植えられていて、他にも四季折々で庭を楽しめるようにという馨君の配慮で、趣味よく庭木が植えられていた。ここにあの名も知らぬ鳥は来るだろうか。初めて三条邸を訪れた時のように胸を弾ませると、水良はしばらくずっと簀子に座って庭の木を眺めた。
その日、新しく近衛府に来たのだからと宿直の者にまで引き止められて、ずいぶん遅くなってから馨君は東一条邸へ向かった。
気に入ってくれているだろうか。気に入ってくれてるといいけど。ドキドキしながら馨君が東一条邸のそばで牛車を止めると、周りをぐるりと見てから中に入るよと言って牛車を降りた。それなら私もお伴します。そう言って熾森がついてくると、馨君の牛車は先に車宿りへ向かった。
「あの荒れ宮が、これほどまでに美しいお邸になるとは…」
「元はしっかりとした造りをしていたからね。番匠も思ったより修繕は簡単だと言ってたし」
言いながら塀の周りをぐるりと回ると、途中から引き返して馨君は笛でも吹いて歩きたい気分だなと機嫌よさそうに言った。熾森が笛なら水良さまのお荷物の中にございますよと答えると、馨君はお前なんでそんなことまで知ってるんだと言い返した。
「管弦の宴をすぐにでも開けるよう、音のよいものを揃えておくようにと兼長さまに言われたので、私が笛などを揃えさせていただきました」
「そうだったんだ。知らなかった…」
「お忙しそうでしたからね、馨君さまは」
二人で話しながら壁ぞいに歩いて元の門の前に出ると、そこに牛車が止まっていて、馨君と熾森は顔を見合わせた。権大納言家の牛車だ。家紋を見て眉を寄せると、熾森が待っていた牛飼い童に近づいて尋ねた。
「もし、私はここの従者だが、このような夜更けに何用か」
「水良さまに東一条邸の完成のお祝いをと、行忠さまが直々においでなのでございます」
水干を着た牛飼い童が榻を手に持ったまま答えた。その時、中から権大納言行忠が出てきて、馨君があわてて頭を下げると、それに気づいた行忠も頭を下げてにこやかに笑った。
「やあ、馨少将どの。あなたもお祝いかな」
「はい。水良さまに何かご不便はないかと伺いに」
馨君が答えると、行忠はなるほどと短く答えて従者に榻を出すよう命じた。今宵はよい月ですな。そう言って牛車に乗り込むと、やがて牛車は動き出して行ってしまった。前左大臣どのの見舞いには行けずとも、水良さまのご機嫌伺いには来られる訳ですか。熾森が呆れたように言うと、馨君はシッと指を唇に当てて門から中に入った。
「三条邸の人間はぜっったいに権大納言どのを悪く言っては駄目だ。無用な諍いは避けたい」
「お人好しですな、ウチの若君は」
「何だ、今度は俺の悪口か」
「ウチの若君の悪口は申し上げてもよいのでしょう?」
ニッと笑って熾森が言うと、馨君は唇を尖らせて嫌な奴…と呟いた。二人で寝殿へ向かうと、見なれた女房が大勢いて、まるで三条邸だなと馨君は苦笑した。
まだ新しい東一条邸は、清々しい香りを漂わせていた。新しい木の匂いは気持ちがいいな。考えながら馨君が勝手知ったる他人の家で女房の先導もつけずにスタスタと簀子を歩いていると、ふいに馨君!という水良の声が響いて、馨君は庭に目を凝らした。
「…水良!」
階から庭に下りると、馨君は裸足のまま高い木の影に駆け寄った。満月に近い月の出る夜に、木の上に立つ水良の姿がわずかに見えた。馨君が下から水良を見上げると、水良は目を細めて馨君を見つめた。
「登れる?」
「お前が登れるなら俺にも登れるよ」
太刀とおいかけを外して袍も脱ぎ捨てると、表袴もささっと脱いで、驚いた水良には構わず馨君は単衣と大口袴姿でするすると木に登った。あっという間に水良のいる所まで登ると、赤い顔をして息をつきながら馨君は水良を見上げた。
「お前、内裏で木に登る練習でもしたの?」
太い枝にもたれて馨君が尋ねると、水良はうんと頷いて笑った。この木は植えたのではなくて元から生えてた奴だよ。馨君がそう言って木の幹をなでると、水良はふいに真顔になって馨君をジッと見つめた。
「俺は…あの頃よりも大きくなったよ、馨君」
「え?」
「もう大人になってしまった」
低い声で囁くと、水良は黙り込んだ馨君の表情を眺め、それから笑った。さっき権大納言の車が来ていたのを見た? 水良が木の枝を跨いで座ると、馨君はその前にしゃがんで答えた。
「うん…東一条邸の完成祝いに来たと仰っていた」
「嘘だよ。来てからずっと三の姫の話をして帰って行ったよ。藤壺にいる時もたびたび話していたけど。内裏を出たらもっと気軽に通えるのだから、自分の屋敷にもぜひ来てくれと言ってた」
水良の言葉に馨君が水良をジッと見つめると、水良は馨君の大きな目を見つめ返した。
三の姫の話…何て答えたんだろう…断ったんだろうか。それとも…受けた? 喉の奥に息苦しさを覚えて、馨君はふと視線を伏せた。この気持ちは、覚えがある。水良の添臥しの姫を探さなくてはいけなかった時だ。
「…気になる?」
水良に言われて、馨君はビクンと体を震わせた。気になってなど。そう答えて木から降りようとすると、後ろから袖を引かれて馨君は振り向いた。夜目に水良の表情はよく見えなかったけれど…息づかいで水良がすぐそばにいることだけは分かった。水良。馨君が呼ぶと、水良は袖を離して答えた。
「かねてより風に先立つ浪なれや…と言ったら、会わぬままでも噂が立つというのなら、会って立つ波の方がよいでしょうと言われたよ。権大納言どのは肝の太いお方だ」
呆れたように水良が言うと、馨君はホッとして息をついた。よかった…少なくとも今すぐに三の姫とどうこうなるつもりはないみたいだ。馨君が体の力を抜くと、水良はふいに拗ねたように目をそらした。
「そうやって安心しているのは馨君自身か、それとも左大臣家の一の君か」
「え?」
驚いて馨君が尋ね返すと、水良は何でもないと答えて先に木から降りた。馨君さま! 寝殿から馨君の白い単衣に気づいたのか、若葉が庭に降りて二人が登っていた木に駆け寄った。危ないからすぐにお降りになって下さいませ! 木を見上げて若葉が言うと、水良はふいと先に寝殿へ歩き出してしまった。
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