玻璃の器
 

 嫌なことを言ってしまった。そんなつもりじゃなかったのに。
 浮線綾文の入った白い袿を羽織って烏帽子をかぶった水良が、枕を立てた所に頬杖をついてため息を吐いた。馨君がいつも家や立場に関係なく、自分の意志で俺を思ってくれていること、ちゃんと分かってるのに。それが…俺が馨君を思うように俺を思ってくれるのか分からなくて、いつもイライラしてしまう。
「バカだな、俺も」
「全くだ」
 ふいに馨君の声がして、水良が驚いて顔を上げると、立てていた枕がパタンと倒れた。掛けがねの開いていた妻戸の隙間から、馨君がするりと中に入ってきた。女房の先導もなく、手には紐をつけた瓶子をぶら下げていて、水良が怪訝そうに馨君を見上げると、馨君はそのまま開いた襖障子から入って水良の前を横切り、御簾を上げて廂の格子を上げた。
「馨君」
 すぐ隣に控えている女房も呼ばずに自分で円座を出すと、水良の呼び声は無視して、馨君は手に持っていた瓶子を床に置いた。そのまま廂に座って、杯に瓶子から直接酒をつぐと、グイとあおってから馨君はじろりと水良をにらんだ。
「何ぼっとしてんだ」
 一度は寝所に入ったのか、赤い単衣に薄物の袿を羽織った馨君の鬢は少しほつれていて、水良がそろそろと廂に出て来て向かいに座ると、馨君は重ねていた杯の一つを水良に押し出してそこに酒をついだ。馨君さま、塩か干物でもお持ちしましょうか。控えていた女房が馨君に気づいて廂を回り込み声をかけると、馨君はいらないと答えてまた杯をあおった。
「お前、明日も参内だろ。あんまり飲んだら…」
 水良が言うと、すでに頬を赤くした馨君が酔って熱っぽい手で水良に杯を握らせた。
「二人で一緒に飲んだことなかったろ。一度、水良と酒を飲んでみたかったんだ」
 まだ不機嫌そうに馨君は三杯目の酒をついだ。水良が杯をチビリと舐めると、馨君はこんなに月の美しい晩に一人で寝てるなんてと呟いた。
「ああ、ホントだ」
 格子の向こうには、庭の松の木のちょうど右側に満月に近い月が出ていて、水良が目を細めて月を見上げると、馨君はあぐらを組み直して杯を床に置いた。
「もうすぐ内裏でも月見の宴が開かれるな」
「うん…早いな。あれからもう一年か」
 水良が懐かしそうに酒を口に含むと、馨君はそうだなと呟いて廂と母屋の間の境目にある柱に後ろ向きににじり寄ってもたれた。だらしなく足を伸ばして座ると、ついでくれと杯を出して馨君は水良を見上げた。
「何だ、横柄だな。俺を女房代わりに使うとは」
 言いながらも瓶子を持って馨君の脇に座ると、水良は酒をこぼさないようにゆっくりと瓶子を傾けた。怒ってるだけだ。そう言い返して杯に唇を当てると、それを飲み干して馨君ははーっと熱い息を吐いた。
「さっき…俺が安堵したのを保身ゆえと思ったな」
 直球で言われて、水良が言葉をなくして黙り込むと、馨君はふっと視線を伏せて水良の手から瓶子を取り上げた。
「そう思ったら悔しくて眠れない。お前が本当に好きなら…俺だって考えないでもないのに」
「好きって…誰を」
「三の姫に決まってるだろ、権大納言どのの。たとえ父上と仲たがいをしておられるとはいえ、俺には…お前が姫の元に通うことまで口出しすることはできないもの」
 …何考えてるんだ、こいつ。次々と酒をあおって頬を赤く染めた馨君をそっと見つめると、水良はふいに馨君の手から瓶子を取り上げた。あ! 馨君があせって手を伸ばすと、それを遮って瓶子をあおり、一気にゴクゴクと飲んで水良はぷはっと息をついた。
「あー…こんな一気に」
 呆れたように瓶子を受け取って馨君が瓶子の口から中を覗くと、ふうっと酒臭い息を吐いて水良はズイッと馨君に近づいてその顔を覗き込んだ。俺が誰を好きだって? 水良が真っ赤な顔をして尋ねると、馨君は呆れたように瓶子を脇に置いて答えた。
「だから、それは例え話…」
「…誰を好きだって?」
「例えば水良が、俺に不利益になるような姫を選んでも、俺はお前の力になると言うことだよ」
「バカな…誰が他の姫を選ぶなんて言った」
 今にも触れそうなほど顔が近づいて、馨君は思わずゴクリと唾を飲んだ。胸が…はち切れそうだ。何で近づいただけで。
「…あ!」
 ふいに水良の体が覆いかぶさってきて、馨君は思わず逃げようとして瓶子を蹴り倒し、中に半分ほど残っていた酒が簀子に流れた。重い! 水良! 抱きすくめられて馨君がドンドンと水良の胸を叩くと、グーッと水良の喉元で音がして、馨君は唖然として水良を見た。
「…まあ! 水良さま!!」
 いへついも(里芋)を蒸し焼きにして味噌を塗ったものを折敷(おしき)に乗せて運んで来た若葉が、グデングデンの水良に気づいて声をかけた。若葉、どかせて。馨君にしがみついたまま落ちてしまった水良を押しのけようとじたばたしながら馨君が言うと、若葉はまああと苦笑しながら水良の腕をつかんだ。
「よいしょ! ああ、本当に大きくなられましたわねえ。三条邸におられた頃は、私でもだっこしてさしあげられましたのに」
 若葉が水良の腕を肩に乗せて引っ張ると、馨君は水良の体の下から這い出て息をついた。いきなり何すんだコイツ。心臓をバクバクさせながら馨君が涙目になって水良をにらむと、水良はそのまま目を閉じてスヤスヤと気持ちのよさそうな寝息をたてていた。
 一瞬…唇を吸われるのかと思った。
 うわ、何を考えてるんだ俺は。頭が混乱して、馨君はドンと水良の背中を両手拳で叩いた。もう、バカ! ほんとバカ!! ドンッとまた同じ所を叩いても水良は起きなくて、酒のせいで耳たぶの先まで真っ赤に染まっていた。飲み慣れないのにあんなに一気に飲むからだ。体の力が抜けて、馨君が自分の額を押さえると、誰か呼んで運んでもらいますわと言って若葉があたふたと宿直していた従者を呼びに行ってしまった。急に周りが静かになると、馨君は唖然としたまま、床に伏せて眠っている水良の横顔を眺めた。
 大きな寝息をたてて眠っている水良の寝顔をジッと見つめて、馨君はため息をついた。そう言えば…元服した日の夜以来、水良の寝顔を見るのは初めてだな。立てた片膝に頬杖をついて馨君が水良の顔を覗き込むと、ふいに水良がうーんと呻いて仰向けに転がった。必要以上に避けてドキドキしている胸を押さえると、それからまたそろそろと、まるで珍しい動物でも見るかのように水良の顔を覗き込む。
 こうやって寝てると…本当に大人みたいだ。
 春宮さまは主上に似て、優しげな顔立ちをしておられるけど…水良はひょっとして母上似なんだろうか。主上にはあんまり似てない気がする。眉や口元はどっちかっていうと、会恵さまに似てるかな。すっきりとした顎の線をぼんやりと眺めると、馨君はそっと手を伸ばして水良の頬に触れた。
 うん、あまり当世風の顔とは言えないけど、俺は嫌いじゃないな。
 馨君も酒が回っているのか、何度もぼんやりと水良の頬をなでていると、若葉の足音と寝所の用意をという声が簀子に響いた。三条邸の従者や女房が三人ほど来て、女房が高麗縁の畳に衾と枕を出して整えた。しっかりなさって下さいよと従者二人で水良を運んで寝かせると、馨君はようやくホッと息をついて、格子を下ろしている若葉を見上げた。
「水良、すっごい酒弱い」
「シッ、馨君さま。『さま』付けて下さいませよ、他の女房たちの前では」
 ここには内裏から来られた女房どのもいらっしゃるんですから。若葉が人さし指を唇に当てて言うと、馨君は眉を寄せて立ち上がった。
「東の対へ戻る。若葉、お前は水良についてろ」
 母屋で水良に衾をかけている従者たちをちらりと見ると、馨君は怒ったようにスタスタと東へ歩き出した。あらまあ、お酒をこぼして。母屋から簀子に出てきた別の女房に振り向いて始末を頼むと、馨君はムッとした表情のまま早足へ自分の寝所へ向かった。

 
(c)渡辺キリ