玻璃の器
 

 熟睡したせいかいつもよりもすっきりと目が覚めて、水良が若葉に手伝ってもらって身支度を調えていると、ドスドスと大きな音を立てて簀子を歩いてきた馨君が、武官束帯に身を包んで半分巻き上げてあった御簾の外に平伏した。
「水良さま、おはようございます。ゆうべはさぞかしよく眠れましたでしょうね」
「え…うん。ありがとう」
 いきなりの喧嘩口調に面食らって水良がおずおずと答えると、馨君は面を上げて花が咲くように華やかな笑みを浮かべた。
「私はこれから参内いたしますゆえ、水良さまはこちらでごゆっくりとおくつろぎ下さいませ」
「あ、はい。頑張って…」
「それでは失礼いたします」
 また深々と頭を下げると、馨君は立ち上がって目を合わさないままスタスタと歩いて行ってしまった。俺…夕べは何かしたのか。唖然とその足音を聞きながら水良が若葉を振り返ると、若葉は肩をすくめた。
「夕べ、馨君さまがお酒を入れた瓶子を持っていらして、水良さまと飲むとおっしゃられて。私にも分かりませんけど、三の姫さまがどうのと仰っておいででしたわ」
「三の姫?」
 怪訝そうに水良が尋ね返すと、夕べは権大納言さまもいらしたでしょうと言って若葉は朝食を取りに母屋を出ていった。
 それで、なぜ馨君の機嫌が悪くなるんだ。不機嫌だったのはこっちの方なのに。考えながら立ち上がって水良も母屋を出ると、南の築地(ついじ)の外を牛車が移動する音が響いた。行ってしまったのか、早いな。簀子に出て音を目で追いながら息をつくと、母屋に戻って水良は二階厨子(にかいずし)に置いてあった硯箱と紙を取り上げた。
 今日は方々への挨拶と母上や内裏の方々に文を書かなければいけない。面倒だな…。色とりどりの紙を広げてどれをどの人へ送るか考えていると、折敷を持った若葉や他の女房たちが現れて、笑いながら先にお食事を召し上がりなさいませよと水良に声をかけた。
 母屋に紙を広げたまま横着をして廂で食事を摂っていると、水良はふいにあ、と声を上げた。そのまま頬を赤くした水良に、そばで水をついでいた女房がいかがなさいましたと声をかけた。いや、何でもないんだと言葉を返して大人しく食事を続けると、水良は夕べの自分の失態をありありと思い出して視線を伏せた。
 酒を一気飲みしたら、急にだるくなって馨君にのしかかってしまったんだ、俺。
 もし、そのまま組みしいていたら。あわててごちそうさまと言って立ち上がると、食事を半分ほど残したまま水良は母屋に入って、真っ赤になった顔を女房から背けて墨をすりはじめた。そうだ。馨君に抱きついて、そのまま眠ってしまったんだ。あの柔らかな感触は…馨君の体の感触だ。
「うわあ…」
 思わず頭を抱えて、水良は背中を丸めた。何だかよく分からないが、せっかく馨君が折れて向こうから来てくれたのを、俺はへべれけになってぶち壊しにしてしまったんだ。そりゃ怒るのは当たり前だ。しかもそのまま寝てしまったんだから。
「若葉! 参内の用意を!」
 あたふたと立ち上がって水良が呼ぶと、局に下がっていた若葉がしばらくしてからどうなさったんですかと水良に声をかけた。大内へ行くから二藍の直衣を出してくれ。朝食も食べかけ、墨もすりかけの状態で言った水良を見て目を見開くと、若葉はとりあえず落ち着きなさいませと答えて、床に広げた紙を拾い集めた。
「さきほど使いの者が来て、午後から白梅院さまがおいでになられると言っておりましたし、内裏からも東一条邸の完成祝いの品々が届いておりますわ。それをご覧になって、各々、今日中にはお礼の文を届けなければ…水良さまも佐保宮の主人となられたからには、いろいろとやらなければいけないことがありますのよ」
「…でも、馨君が」
「若君に何か御用なら、文を届けさせましょう。ほら、食事をお残しになられては台盤所の者たちががっかりしますわ」
 若葉に言われて、それもそうだなと気を落ち着かせて水良はまた折敷の前にあぐらを組んで座った。水漬けにしてくれ。強飯の入った碗を女房に出して菜のものをつまむと、水で飯をさらさらと流し込んで水良は女房にお代わりを頼んだ。

 
(c)渡辺キリ