玻璃の器
 

 絢子…藤壺女御が絡んでいるだけに誰に話すこともできず、日々の忙しさに紛れて、蛍宮邸で見かけた小さな冬の君のことは記憶の端に追いやられてしまった。
 東一条邸の修繕が始まると、兼長から任され、馨君は参内の合間を縫って東一条邸の修繕の進み具合を監督していた。水良の意向を番匠(ばんじょう)と相談しながらも、木匠たちをねぎらうための酒や食事を手配し、時にはよい働きをしたものには褒美を与えようとハッパをかけてみたり、工夫と心労の毎日を送っていた。
 芳姫とは梨壺よりも藤壺で会う機会が増え、絢子も水良が内裏を出ることが決まった直後の憔悴からすっかり元気を取り戻していた。絢子への機嫌伺いをするたびに、絢子の声を聞くと何となく冬の君のことを思い出し、まさか本人には聞けないしと誰にも言わないまま時は過ぎた。
 芳姫が藤壺に詰めているため、梨壺にいる惟彰が憂いているという噂を宮中で聞いて、馨君が久しぶりに梨壺へ惟彰の機嫌伺いに行くと、夢にさへ(ゆめにさえ)と扇の内で呟きチラリと馨君の顔を見て惟彰はニッと笑った。
「君をのみ思ひねに寝し(きみをのみ…)。見ようと思えばいつでも見られるものでしょう?」
 馨君が下座に座りながら返すと、惟彰はフッと笑って扇に視線を落とした。十七歳になった惟彰は、二年前、元服式の夜に会った頃に比べるとずっと大人びて声も低くなっていた。いつ見てもやっぱり適わないなあ。直衣の首元を緩めて着崩し、くつろいだ格好でいてもどこか男前な惟彰を見てふうっと息をつくと、馨君はあぐらを組んで目を細めた。
「お久しぶりでございます、春宮さま。長の無沙汰をお許し下さい」
 馨君が言うと、惟彰は扇をパチリと鳴らしてから、東一条邸の修繕で忙しいのでしょうと返した。女房たちがさやさやと衣を鳴らしながら下がると、惟彰は脇息にもたれてまた扇を開いた。
「母上を心配して芳姫も藤壺にずっといるから、私もできるだけ藤壺に行くように気をつけていたんだが、やはり山梔子(くちなし)の方にも気をかけなければいけないし…。身軽な水良が羨ましいよ。私も宇治で元服をすればよかったかな」
「お戯れはほどほどになさって下さいませ。春宮さまがご出奔なされたら、内裏がひっくり返ります。それに山梔子の方とはお可哀相でございますよ。私が宣耀殿を訪れた時は、よくお話になられましたよ」
「誰も宣耀殿だなんて言ってないけど?」
 惟彰がとぼけて答えると、馨君は真っ赤になって俯いた。ずるいな。呟いた馨君ににんまりと笑うと、惟彰は脇息から身を起こして馨君に近づいた。
「ねえ、馨君。私とてあなたにならば鐘ごとこの身を焼かれようとも構わぬと思っているんだよ?」
「だから、俺は清姫かって…春宮さま、それをどこでお耳に」
 怪訝そうに馨君が尋ねると、惟彰は馨君の手をつかんで上目遣いににんまりと笑った。油断も隙もないな。馨君が手を取りかえそうと力を入れると、惟彰はふっと真顔になってその細い手をギュッと握りしめた。
「馨君、もし水良が東一条邸へ移ったら…あなたはそこへ通うのだろうね」
「…お忍びの相談なら、右衛門佐どのになさって下さいよ。私は取り繕うのは苦手なんです」
「お忍びか。それもいいかもしれないな」
 突然行くからと言っておけば、少しの物音で思いとどまることもあるかもしれない。真面目な表情で思案する惟彰を見上げると、馨君は手をつかまれたまま首を傾げた。何を考えてるんだろう、意味が分からん…一人だけ置いてけぼりにされるのが嫌だと思ってるようでもなさそうだし。
 しばらく馨君の手を握ったまま目を伏せている惟彰を見て、馨君は息をひそめた。元からたまに変なことを言い出す人だったけど、今日は特に『冴えてる』な。馨君が心配そうに惟彰の顔を覗き込むと、惟彰は赤くなってふいと目をそらした。
「私一人のあなたなら、ずっとここにいてほしいとも言えるけれど…あなたはみなから愛されているからそうもいきません。あなたを思ってみても、夢にすら現れてくれないのだから」
 そのまま扇で顔を隠して視線をそらしたままの惟彰を見上げると、馨君はしゅんとなって目を伏せた。最近、本当にこちらには来てなかったもんな。春宮さまは気軽に外に出られない身なんだから、もっとちゃんとお伺いしなければ。
「春宮さま、寂しい思いをさせて申し訳ありませんでした。今、蛍宮さまや蛍宮さまの二の宮さまから琵琶や笛を習っておりますので、明日は笛を持ってお伺いいたしますよ」
「本当に?」
 パッと表情を輝かせて惟彰が言った。何だよ、嘘泣きじゃん! 真っ赤になって眉をひそめた馨君を見ながらもその袖をつかむと、惟彰は必ずまた来て下さいと言って目を細めた。

 
(c)渡辺キリ