玻璃の器
 

 馨君が椿の宮から笛の手ほどきを受けるようになると、初めは馨君の堂々とした姿に恥じらっていた椿の宮も、年下ながらきちんと真面目に馨君に笛の技法を教えるようになった。忙しい合間を縫って蛍宮家の寝殿に通う馨君を見るにつけ、北の方や女一の宮の女房たちはそのまま萩の宮姫の婿君になってくれればよいのだけれどと言って嘆息をもらした。時の右衛門佐の姉の富久子は、萩のかさねがよく似合うたおやかな姫だという世間の噂で、萩の宮姫と呼ばれるようになっていた。
「馨君さまは浮いた噂ひとつない誠実なお人柄だし、もし姫に通って下されば、きっと家柄のことも考えて正室にと迎えて下さるに違いないわねえ。そうなれば心を込めてお世話させていただくのだけれど」
 寝殿の外れで今日も椿の宮が教える笛の音が響いていて、それを肴に月を眺めていた北の方、禎子がため息まじりに言った。周りの女房たちがそうですわねえと相づちを打つと、ふうっと長いため息をついて禎子は脇息にもたれた。
「二の宮(椿の宮)の女房たちにも、それとなく大君(姉君)の噂をするよう言っているのだけど、後で様子を聞いてみたら、やはり楽の話に夢中になられている様子…二の宮は一の宮と同様、馨君と仲良くなっておられるというのに、やはり何か理由をつけて、大君を同席させる方がいいのかしら」
「そうでございますねえ。姫さまはお美しくて長い髪をお持ちだし、琵琶も達者にお弾きになられますゆえ、管弦の小宴などされてもよいかもしれません」
「本当に…二の宮にとっては、馨君とお近づきになれることはよいことだけれども、かえって気を揉まされて辛いことだわ。それに、あの白君(冬の君)がいつも笛の手ほどきの時に二の宮と共にいるというではないの。白君までが覚えめでたきなどということになれば、二の宮はどうなってしまうのか」
 忌ま忌ましげに言うと、禎子は手に持っていた扇で脇息を打ち据えた。お方さま、やはり白君は蛍宮さまの…。そばにいた気に入りの女房がため息まじりに尋ねると、禎子は眉を寄せて答えた。
「殿は生身の女よりも楽に心を奪われておられるゆえ、これまで妾の心配などしたこともなかったというのに、遠縁の子だなどと偽りを申されて引き取るほど愛した妾がいたなんて…殿が生涯私だけだと仰るから、あまたある縁談の中でも殿をお選び申し上げましたのにっ!」
 扇をへし折らんばかりの勢いで言った禎子に、お察し申し上げますわと周りの女房が相づちを打った。しかも、いくら顔立ちは愛らしいといえ、あの無愛想では…と女房たちが囁くと、禎子は扇をサッと開いてまた脇息にもたれた。
「あれで殿に少しでも似ていれば、まだ可愛がろうという気も起こるだろうに」
「お方さま、馨君さまがお帰りでございます。もう夜更けなれば挨拶は控えさせていただきますとのことでございます」
 ふいに椿の宮付きの女房の声がして、禎子は身を起こしてもうお帰りなのと残念そうに言った。二の宮さまと冬の君さまがお見送りになられておりまする。平伏して言うと椿の宮付きの女房は静かに立ち上がって、またさやさやと衣擦れの音をさせながら立ち去った。
 いつの間にか笛の音がやんでいたことにようやく気づくと、禎子は憂いの息を吐いておぼろ月夜を見上げた。一の宮のように二の宮にもよい縁談をまとめなければと考えながら、禎子は手持ち無沙汰に扇を閉じた。

 
(c)渡辺キリ