三条邸に戻るか東一条邸へ行くかでずいぶん迷って、二条辺りでうろうろした挙げ句、熾森からどうなさるのかいい加減にお決め下さいませと叱られて、馨君は渋々東一条邸へ向かった。
今朝、内裏へ佐保宮の様子を報告に行った後、近衛の陣へ戻ると水良から文が届いていた。昨日はすまなかったという謝りの文で、許そうか怒ろうかまだ迷っていた。ムカつくのはムカつくんだよ。人を疑った挙げ句に、あの状況で酔って寝込んでしまうなんて。あの状況って言っても…そりゃあ別に、な…何があったって訳でもないんだけど。
「着きましたよ、全く。こんな夜更けになってしまって」
まだブツブツ言っている熾森にゴメンってと謝って、馨君は榻を踏んで牛車を降りた。中に入ると昨日はなかった新しい調度品が並んでいて、どなたからの贈り物だろうと首を傾げて、馨君は出迎えに来た若葉に尋ねた。
「これはどなたから?」
「今日、未の刻に白梅院さまがお見えになられて、祝いにと運ばせなさったものですわ。噂通りの美丈夫で、もうご老齢ながらご立派な佇まいをしておられましたわ」
うっとりと言った若葉に、馨君はなるほどなあと答えて、睡蓮の絵をあしらった質のいい屏風を眺めた。ご趣味のよい方だと伺っていたけど、なるほど、頷けるな。馨君がとりあえず水良に挨拶に行こうと言って武官束帯のまま寝殿へ向かうと、若葉がいたずらっぽく言葉を続けた。
「今日はもうお一方、お見えでございましたわ」
「そうか。どなたが?」
「女車に乗ってお見えでございました。唐衣に大海の裳もご趣味がよろしくて」
「え?」
女? 馨君が足を止めて振り向くと、若葉はニッと笑って焦りますでしょと答えた。焦るって何だよ。馨君が言い返してまた歩き出すと、若葉は後ろをついて歩きながら話しかけた。
「一つお年が下の水良さまに先を越されたら。ですから、若葉がいつもお早くよい姫を見つけなさるよう申し上げておりますのに」
…何だ、そういう意味か。眉をひそめて黙ったまま馨君が渡殿を渡ると、簀子にいた女房がお帰りなさいませと馨君に声をかけた。ご苦労さま。そう言ってにこりと笑みを返すと、馨君は水良が寝殿にいるか尋ねた。
「先程までお邸を回ってご覧になられてましたけど、今は戻ってご本を読んでおいでです」
「そうか。俺が挨拶に来たと知らせてくれるか」
「分かりました」
女房を先にやって、馨君が簀子から日の落ちた庭に目を凝らしていると、若葉がいつものように直接行かれればよろしいのにと含み笑いをもらした。喧嘩をして気まずいからとは言えず馨君が黙っていると、ふいに簀子に直衣姿の水良が出てきて馨君を見た。
「お帰り。あの…文を見たか」
「見たよ」
馨君が無愛想に答えると、まだ怒ってるかとため息をついて水良は母屋に戻った。馨君が簀子に座り、ご機嫌伺いに参上いたしましたと言うと、水良はそばにいた女房に馨君の夜食をここに運ばせるよう頼んで、それから漢籍に視線を落とした。
「若葉、馨君の着替えを頼む。俺の直衣を出してやってくれ」
「かしこまりました」
なぜお前が俺の着替えを頼む。ムッとして馨君が顔を上げると、水良は本を目で追ったまま黙り込んだ。まだ怒っているのかと困ったように眉を寄せ、水良が言葉を探していると、几帳を立てて区切った所で馨君の束帯の平緒を外しながら若葉が言った。
「今日はお忙しかったから、水良さまもお疲れでしょう」
その言葉にまたムッとして、馨君は束帯の袍を脱ぎながら口を開いた。
「新しいお屋敷に移ったと思ったら、もうどこぞの姫君を呼びつけられましたか。横着にもほどがありますよ。水良さまに通われてこそ姫君もお喜びになるのでは」
「え?」
水良が驚いて尋ね返すと、指貫を履き、単衣の上から気楽な直衣を羽織って首元を緩めたまま馨君は黙り込んだ。姫君って、どこの姫君を呼んだって? 考えてから水良は思わず吹き出しそうになった。何をどう聞いたのかは知らないが、王命婦の訪れを姫君と勘違いしたのか。
それを…そんな風に咎めるのは。急に胸がドキドキして、水良は手元の漢籍に視線を落としたまま息をひそめた。
少しは俺を思ってくれているのか…。
そんな風に、自惚れてもいいのか。
「姫君か。かの姫君とは久方ぶりで、無沙汰をしたことを詫びたら、ご自分も東一条邸が完成したことを知らなかったのでと仰っていたな」
「…ふうん、あまり気の利いた方ではないのだな。ちゃんと教育していれば、ご自分が知らなくても女房や従者がそれとなくお教えになるだろうに。ましてや、そのような所にノコノコとおいでになられて」
思わず刺のある言い方をすると、馨君は自分の言葉が嫌になって自室代わりに使っている東の対へ戻ってしまおうかと唇を尖らせた。独り身と思えばこそ婚家の代わりにと懸命に世話をしたのに、よい姫君がいるのなら俺が出るまでもなかったじゃないか。
視線を伏せて馨君が黙っていると、笑いを堪えていた若葉がふいに申し訳ありませんと言って顔を背けて吹き出した。え? 唖然として馨君が若葉を見ると、それにつられて水良も笑い出した。何? 馨君が几帳をどかせて尋ねると、声を上げてひとしきり笑ってから水良は答えた。
「王命婦だよ。いや、前の命婦と言うべきか」
「…へ?」
「今日いらしたのは王命婦だって。俺が佐保宮へ移ったと内裏で聞いて、寄ってくれたんだ。母上から月見の宴に出るようにという文を預かってさ」
水良が笑いながら言うと、馨君は耳たぶまで真っ赤になって目をそらした。
「だって…若葉が女車が来たって」
「王命婦さまが乗っていらした女車のことですわよ」
若葉の言葉に、馨君はもういいと言ってぷいと顔を背けた。若葉、他のみんなもちょっと下がってくれるか。ふいに真顔になった水良が言うと、若葉を含めた女房たちがさやさやと衣擦れの音を立てて下がっていった。
「馨君」
水良の声が響いても馨君は黙ったまま几帳のそばに立っていて、水良の方が立ち上がって馨君に近づいた。別に、姫君が来た所で…。言い訳のように呟いた馨君のあまりの可愛らしさに思わず笑って、それから水良は馨君の顔を覗き込んだ。
「馨君、俺が姫の元に通ったら嫌か」
「…そんなことは」
「嫌だから、怒ってるんだろ?」
その大きな目を覗いて水良が尋ねると、馨君は視線を伏せたまま黙り込んだ。水良の匂いが鼻をくすぐって、白い頬を赤く染めて馨君は長いまつげを震わせた。
「嫌…とか、そのようなこと、言える立場では」
「言える立場なら、言うか?」
「そんなこと…!」
ふいにしっとりと唇を頬に押しつけられて、馨君が息を飲んだ。水良の手がそろそろと馨君の肩に触れて背中に回った。硬直した馨君の額に、鼻先に唇でそっと触れて、それから水良はいいかと低い小さな声で尋ねた。い、いい…いいかって。馨君がうろたえて声を上げると、水良はあわててシッと指を唇に当ててから馨君を見つめた。
「俺がなぜまだ独り身か、お前…分かるか」
「…水良」
「分かってほしい」
馨君の耳元で囁くと、水良はそのまま馨君の華奢な体に腕を回して抱きしめた。一瞬、頭がクラついて馨君は息を詰めた。水良の腕は思った以上に力強く、自分よりも大きな手をしていた。さっき着替えるために立てた几帳の影に馨君を押し込むと、そのままふらついた馨君の体に腕を回して水良は馨君の唇に自分の唇を押しつけた。
…あ。
急に近づいた水良の香の匂いに、気が遠くなって馨君は水良の直衣の袖をつかんだ。水良の唇は温かく湿っていて、遠い昔に共寝をした時を思い起こさせた。ギュッと目を閉じて水良を押し返すと、馨君は潤んだ目で水良を見上げた。分かってほしい…何を。水良が一人でいる理由…?
「あ」
力を込めて抱きすくめられ、馨君は水良と自分の体の隙間に腕を差し入れてそれを振りほどこうとした。ずっと、ずっとずっと…水良は、俺を? あの宇治での元服の夜も。振り向いた水良は…笑っていた。妃などいらぬと言って…いつも、そう言って。
「ちが…嫌、駄目だ! だ…」
もみ合っている内に、馨君の烏帽子が水良の耳に当たって落ちた。カアッと赤くなって馨君が黙ったまま首を横に振ると、水良は好きだと低い声で囁いてギュウと馨君を抱きしめた。力が抜ける…頭がぼうっとして。水良の声が心地よくて思わずうっとりと目を細めると、直衣の背をつかんだ水良の手がそのまま腰に回って、馨君は我に返った。
「やっぱり駄目!!」
ガツンと水良の額に頭突きをして、手が緩んだ所を押し返して馨君はようやく水良から離れた。いててと額を押さえた水良をチラリと見て、それから馨君は一瞬迷い、そのままバタバタと足音を立てて母屋から出て行った。拒まれた…遠ざかっていく馨君の足音を耳にしながら床に手をつくと、水良はそのままガックリと頭を垂れて、馨君が落としていった烏帽子を見た。
どうすんだ、俺。
言ってしまった、好きだなんて。つい、あの拗ねた馨君の愛らしさに負けてしまったー…。烏帽子を拾って立ち上がると、馨君を追って行くかやめるかで悩んで水良は大きく息を吐いた。だって…あんな風に言われたら、そりゃ抱きしめたくもなるだろ。一瞬、身を任せてくれたかと思ったのに。
「水良さま? 馨君さまが先程、東の対へ戻られたようですけど…夜食はどうなさいます?」
ふいに簀子の方から女房の声がかかって、水良は我に返った。そうだ。あのままコトに及んでいたとしても…いずれは女房が来て見られていたかもしれない。夜食は東へ運んでやってくれと言って、それから行きかけた女房を呼び止めると、水良は少し考えてから硯箱を出して、懐紙に歌を書きつけて結び文にし、それを硯箱の蓋に乗せて女房に渡した。とにかく気持ちを分かってほしい。
「これを…馨君に」
「はい」
女房が蓋ごと受けとってしずしずと行ってしまうと、水良ははあーっと深いため息をもらしてそばにあった脇息にもたれた。俺…どうしたらいいんだ。
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