戌の刻になってからようやく方々への文を書き終えると、また東門の方が騒がしくなって、誰か来たんだろうかと水良は顔を上げた。
それとも、馨君が来たのかな。そばに控えていた女房が見て参りますと言って立ち上がった。これもそれぞれ出すように伝えてくれと、書き上げたばかりの文を文箱に収めて紐を結ぶと、水良はそれを差し出した。
「水良さま、内裏よりお使者さまがおいででございます」
「内裏から?」
水良が驚いて尋ね返すと、こちらにお通ししましょうかと女房が尋ねた。頼むと言って硯箱に蓋をして脇へ押しやると、別の女房に角盥を持って来てくれと頼んで水良は袖の紐を解いた。
「王命婦さまのお越しにございます」
墨のついた指を角盥で洗って布で拭いていると、女房に案内されて王命婦が簀子に控えて床に指をついた。お久しぶりでございます、水良さま。にこやかに言って頭を下げると、王命婦は巻き上げた御簾の間から水良を見て目を細めた。
「命婦…いや、もう内裏を下がったのだから、王命婦ではないのだな」
水良が東一条邸に移るよりずっと前に、持病を理由に内裏を下がっていた王命婦は、白髪のまじった鬢に髢(かもじ)を足して後ろで束ねていた。具合はよいのか。水良が中へ入るよう言うと、きちんと唐衣と裳をつけた姿で優雅に廂に入り、王命婦はありがとうございますと答えた。
「おかげさまで、よくなりましてございます。藤壺さまや春宮さまからも、高価なお薬をいただいて、先程、内裏へお礼を申し上げに伺いましたら、水良さまがこちらへお移りになられたと聞きまして」
「昨日、移ったばかりだよ。顔色はよくなったようだな。よかった」
女房に白湯と果物を出すように伝えると、水良はこんな格好ですまないなと言って水良は高麗縁にあぐらを組んで座った。
「文を書いていたんだ」
「水良さまは、いつもお袖を汚してしまわれますものねえ。いつぞやなどは硯箱ごと硯を倒しておしまいになられて。お手はご立派なものですのに」
「書上手の三篤どのに教わったからな」
水良が笑うと、王命婦はそうでございましたわねえと懐かしそうに目を細めてから改めて床に手をついた。
「水良さま、佐保宮のご完成おめでとうございます。しばらく臥せっておりましたので、世の移り変わりもこの身には遠い出来事のようで、お祝いも遅れまして申し訳ございません」
「構わんよ。俺の方こそ、一度見舞ったきりでろくに顔も見せず、申し訳なかったな。来てくれて嬉しいよ、ありがとう」
ニコニコと笑みを浮かべて水良が言うと、王命婦は本当に水良さまはお小さい頃と変わりありませんねと目を細めた。王命婦は絢子が三条邸に里下がりをした時にも伴をした内裏の女官で、藤壺にも出入りが多く、水良とも懇意にしていた。
「藤壺さまや内親王さまとも久しぶりに目通りが叶って、老いた身にも久方ぶりに心が浮き立ちましたわ。藤壺さまは水良さまをご心配あそばしておられましたが、命婦は水良さまがご立派に佐保宮の主となることを信じておりますと申し上げましたら、ご自分は気軽に内裏より出られぬ身ゆえ、様子をと仰られて」
「昨日出たばかりだというのに、もう心配かあ」
水良が苦笑すると、王命婦は袖で口元を隠して笑った。母親というのはそういうものじゃありませんかとたしなめて、それから王命婦は改まった口調で言った。
「藤壺さまより、内裏の月見の宴にはご参加下さいますようにと文を賜っております。東一条邸でも、祝いの品々をいただいた方々や大内の方々を招いて、管弦の宴を開かれますようにと仰っておいででございました。こちらには、そのようなことをお教えするような年嵩の気の利いた女房もいらっしゃらないとか。朝顔も水良さまのご希望で内裏に残ったそうで、僭越ながら心配しておりました」
「ああ、見目麗しく若い女房がこのような小さい屋敷に移るのは気の毒だと思って、残した」
「水良さまのお心は嬉しいけれど、でもついて行きたかったと怒っておりましたわ。今は藤壺さまのお計らいで、内親王さまのお世話をさせていただいているようですけれども」
「そうか。よかったよ」
少し気になっていたんだ。水良が言うと、王命婦はありがとうございますと答えた。しばらく二人で語らった後、そろそろおいとまいたしますと老齢の婦人らしくしとやかに頭を下げ、王命婦はゆっくりと立ち上がった。
「車を階に寄せてくれ」
女房に牛車を寝殿まで回すように頼むと、水良は王命婦の丸まった背に手を置いて支えた。もったいのうございます。袖で涙のにじむ目を押さえて、王命婦は水良を見上げた。
「春宮さまと水良さまは、私にとっても大切なお方にございます。今は離れても、どうぞ春宮さまをお支えあそばして、いつまでも仲よくなさって下さいませ…」
「分かっているよ。命婦も体を大事にして、長生きしておくれ。落ち着いたらまた寄せてもらうよ」
水良が言うと、命婦はまた袖で目元を拭った。年寄りは涙もろくて嫌でございますわ。庭を回って牛車が階につくと、命婦は水良の手につかまりながら牛車に乗り込んだ。
「そうだ」
車の中で裳を整えている命婦を見ると、水良はふいに思い出して声を上げた。何でございましょう。命婦が車の御簾をめくって尋ねると、水良は少し考えてから口を開いた。
「お前は前麗景殿の母上を知っているな」
「…はい、私が内裏に入りましたのは、今上がまだ二の宮さまと呼ばれていた頃でございますから」
「母上はどのような方だった。入内される前は」
水良が尋ねると、命婦は入内前でございますかと言葉を止めて、それから答えた。
「都の評判では、大人しくてしとやかな方と。先々帝さまが懐の玉のように大切にお育てになった末の姫宮さまで、春宮さまが主上におなりあそばしたら入内させようと、礼儀作法などもおしつけになられて、それはもう立ち居振る舞いの優雅な方でございました」
「ふうん…そうか。では…他の公達に通われていたとか、噂があったとか、そのようなことは」
「ございませんわ」
固い口調で命婦が答えると、そうかと再び言って水良は息をついた。別に歌を取り交わしたという訳ではなかったか。水良がありがとうと言って笑みを浮かべると、命婦は真顔のまま水良を見つめて尋ねた。
「なぜそのようなことを? どなたかからそのような噂をお聞きになられたのですか?」
「いや、そうじゃないんだ。ただ、さっきおじいさまがいらして…母上の話をしていらしたので」
「他には何か?」
「別に」
水良が答えると、命婦はほうと息をついてそうでございましたかと呟いた。白梅院さまもこちらのお邸をごらんになられて、当時のことを思い出されたのでしょうと言って命婦は水良の手を取った。
「水良さま、母宮さまはこの上なくご立派な方であらせられました。そのことを誇りになさって下さいませ。一点の曇りもない磨かれた玉のような、お美しく気高い方でございましたよ」
命婦に言われて、水良は嬉しそうに頷いた。牛車が動き出すと、水良は気をつけてと声をかけた。しばらく牛車を見送ってそれから目を細めると、水良はまた母屋に戻った。
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