玻璃の器
 

「今日来たのは、東一条邸の完成祝いもあるが」
 白梅院が運ばせた趣味のよい調度品や水良に合わせた特別な織りの直衣は、従者や雑色によって寝殿に運ばれていた。下座に座っていた水良が顔を上げると、白梅院は脇息にもたれて蝙蝠を開いた。それはいつも持っているものではなくて、女性らしい筆跡で歌が書きつけてあった。おばあさまの手とは違うな…。水良が自然に視線を向けると、白梅院は開いた蝙蝠を水良に示した。
「これはそなたの母上の手だ、水良」
「…え?」
 水良が驚いて扇を見ると、丁子染めの蝙蝠に柔らかでたおやかな筆跡で仮名交じりの和歌が書いてあった。香色の紐が白梅院の手からするりと下がった。水良が蝙蝠を受けとると、白梅院は自分の蝙蝠を懐から出して手持ち無沙汰に玩んだ。
「前麗景殿の遺品の中にあったものを、女房に言ってかすめ取らせたのだ。前麗景殿の母宮も姉宮も、前麗景殿のものは見るのがつらいとほとんど焚き上げておしまいになったからな」
「おじいさま…この歌は」
「…いつ書かれたものかは、分からぬ」
 顔色を変えた水良を見て、落ち着いた声で白梅院が答えた。ジッと母親の筆跡を見つめる水良に、白梅院はそなたが持っていてはくれまいかと呟いた。
「よろしいのですか」
 水良が言うと、構わぬと答えて白梅院は視線を伏せた。それから顔を上げて水良をジッと見つめる。
「そなたは母上に似ておられるよ…目や鼻の筋がそっくりだ」
「そんなこと…初めて言われました」
「藤壺や主上は、そなたがもっと大人になってから、前麗景殿のことを話そうと思っていたのではないか。特に藤壺は、そなたを二の宮のように思っておる。ここへ移る時も散々反対したのだろう」
「いえ、反対は…父上のお決めになったことですから」
「本当か。藤壺はそなたをまだまだ子供と思うておるのか、後見でありながら元服した後も独り身のままで放ったまま平気でおる。兼長も何を考えておるのか…」
「ひょっとして、梨壺どののことを仰っておいでなのですか? 私が独り身でいるのは、ただその方が気楽だというだけで…」
 母の形見である蝙蝠を胸元に挿して水良が答えると、白梅院はため息をついて梨壺のことはもう気にしてはおらんと言って眉をひそめた。気にしてそうだな…。水良が上目遣いで白梅院を見ると、ともかくと蝙蝠を畳んで白梅院は水良の黒い目をジッと見つめた。
「佐保宮に移ったからといって、いや、佐保宮に移ったからこそ正室を娶らねばならん。左大臣の姫がダメだというなら、前左大臣の孫娘も権大納言の三の姫もおる。そなたも常陸の宮となったのだから」
 自分の蝙蝠を胸元に差し入れると、白梅院はそろそろ帰ろうと立ち上がった。おじいさま。水良も立ち上がって口を開いた。
「私はやはり、妃はいりません。どの姫でも…私には選ぶことはできないのです」
「…水良、そなた」
 言いかけてやめると、白梅院はともかく考えておきなさいと付け加え、女房を従えて母屋を出た。前麗景殿の蝙蝠を胸元に挿したまま、大きなため息をついて水良は視線を床に落とした。

 
(c)渡辺キリ