玻璃の器
 

 このままここにいて水良が来たらどう言えばいいんだと迷って、馨君は他の女房たちに見られないように、そっと東の対へ戻ってとりあえず烏帽子をかぶった。ようやくホッと息をついて、それでも母屋に入ってソワソワと歩き回っていると、ふいに水良付きの女房が失礼いたしますと馨君に声をかけた。
「馨君さま、お夜食はこちらにお持ちしてよろしいでしょうか」
「え、ああ…うん。ごめん、やっぱり今日はもういい」
 胸が一杯で、とても食べられそうになかった。馨君が返事をすると、女房は手に持っていた硯の箱を御簾の下から押し入れて言葉を続けた。
「水良さまからお文でございます。喧嘩でもなさったのでございますか?」
 心配そうに言った女房に、喧嘩などしてないよと気持ちを抑えた声で答えて馨君は硯箱の蓋に乗った文を取り上げた。これはお返しして。馨君が硯箱の蓋を御簾の隙間から出すと、女房はそれを持ってまた寝殿の方へ戻っていった。
 あの後すぐに書いたのか。人に勝手に口づけておいて、追いもせずに文を寄越したりして。ガサガサと結び文を開いてシワを伸ばすと、馨君は達者な筆跡に視線を落とした。そこには慌てた様子が分かるような少なめの墨で歌が書いてあった。

  独り寝に夢かうつつか 筒井つの妹背の君と思ひそめてき

 …何を考えてるんだ。
 恋しい人を思いながら一人で眠るその夢か現実か、幼なじみの昔語のようにあなたを妻と思いはじめてしまった。歌はそんな意味で、黙り込んで母屋のど真ん中にあぐらを組むと、馨君は汗をかいた額を拭ってため息をついた。
 生まれて初めての恋の歌が、あの水良にもらったものだなんて。
 言えるか! 真っ赤になって馨君は文をクシャクシャと握りしめ、ポイと後ろに放った。部屋の隅に転がった懐紙を思い直してあわてて這っていって拾うと、女房に見られては大変だと綺麗に元の結び文に戻して馨君はそれを二階厨子に置いていた文箱の中に収めた。で、俺にどうしろって言うんだ。蓋をしっかりと押さえて息をつくと、馨君はそこに額を乗せて目を閉じた。
 唇の感触が…柔らかな感触がまだ残っている。
 考えれば考えるほどカアッと体が熱くなって、馨君は目を開いた。今にも水良が来て御簾の隙間から顔を出しそうな気がした。三条邸へ帰ろうにももう遅い時間で、従者や牛飼い童を起こすのは忍びなかった。
 歌を返した方がいいのか少し迷って、馨君は水良の荷物と一緒に運ばせた自分の硯箱を取り上げて女房を呼んだ。硯瓶に水を入れて持ってこさせると、墨を黒々とすって馨君は筆を手に取った。

  うつつとは思ひ思はず筒井筒 筒井の水に色映るとかや

 ちゃんと現実のことだと思っているのかそうではないのか。幼なじみの物語に出てくるという井戸の水にあなたの恋が映るというようだけれど。あやふやで戸惑う心を映したような意味の歌を水に模した秘色のかさねの紙に書きつけて、また深いため息をついた。
「すまない、これを水良さまに…」
 若君の様子がおかしいと息をひそめて廂に控えていた女房に、馨君は文をきちんと折りたたんで渡した。承知いたしました。女房が立って行きかけると、馨君が待って!と声をかけて御簾の隙間から顔を出した。
「皿に水を入れて、添えて持って行ってくれ」
「はあ」
「持っていけば分かるから。それから、俺は何をしてると聞かれたら、もう休んだと伝えてくれ。聞かれたらでいい」
「分かりました」
 どう見ても様子のおかしい馨君に気を利かせて深く追求はせず、女房は文を持って行ってしまった。水良と歌を交わしてしまった…。脇息にもたれてそこに顔を伏せると、馨君は悩み深げに眉を寄せてどうすればいいのかと思いめぐらした。

 
(c)渡辺キリ