玻璃の器
 

 次の日の本番では美しい月が出て、雨が降ったおかげで空気も澄んで楽の音が常よりも冴え渡るようだった。今宵は楽の天人も遊行に来られているかもしれぬと、清涼殿に集まった殿上人たちが囁いた。左大臣兼長を始め、公卿や皇族たちの高欄より長く下がる裾も美しく、また競うように着飾った女房たちの唐衣や裳も宴に華を添えていた。
 急にざわめいた場を見てどうしたのかと惟彰が尋ねると、酒をついでいた女房が笑って、馨少将どのがいらしたのですわと答えた。遅くていらっしゃったのね。そばにいた芳姫が言うと、惟彰は立ち上がって軽く笑った。
「近衛少将となってから、少し忙しくていらっしゃるようだからね。佐保宮の世話もしなければいけないし」
「まあ、まるで佐保宮さまが兄上の御子のような言い方をされますのね。佐保宮さまが聞いたら怒りますわよ」
「あいつはいつまでたっても子供だからさ。そなたの兄上に挨拶をしに行ってくるよ」
 そう言って惟彰は妻戸から外に出た。宴はまだ始まったばかりで、公卿たちから品よく東宮さまにはご機嫌よろしゅうと挨拶されそれに答えながらも、惟彰は場のざわめいている所を目指して進んだ。
「なまじな女房どのよりも美しいですな、馨少将どのは」
 ふいに聞き知った声がして振り返ると、柾目が蝙蝠を口元に当てて目を細めていた。視線は庭に向いていて、惟彰が思わず立ち止まると、柾目は隣にいた中務大輔の伴義蔵に話しかけていた。
「伴大輔どのは馨君が侍従をされていた頃、同じ中務におられたのでは」
「いたにはいたが、かの君は侍従の詰め所と清涼殿を行き来しておられたからな、それほど話は…」
「もったいないな。馨君といえば男ながらに大内の華、佐保宮に取られる前に夜這っておけばと悔やんでいる御仁も多いでしょうに」
「いくら花でも、雄花では仕方あるまい」
 ふふっと伴大輔が笑うと、そうでもございませんよと殊更丁寧に言って、柾目は蝙蝠を広げた。その音に我に返って、惟彰は弾かれたようにまた歩き出した。頭がガンガンする。何だ、今の話は…佐保宮に取られる前に? 大内ではそのような噂が立っているのか?
 惟彰がざわついた人々の間を押し分けると、時の大輔と共ににこやかに挨拶する馨君の姿が見えた。宴の場に武官束帯では場にそぐわないと考えたのか、どこかで着替えてきたらしく馨君は布袴姿をしていた。少将どの。惟彰が声をかけると、馨君が気づいて顔を上げた。
「春宮さま!」
 馨君の言葉に、そばにいた殿上人が道を開けた。時の大輔と馨君が歩み寄ると、惟彰は馨君の大きな目をジッと見つめて口を開いた。
「佐保宮が世話になってるね。本当なら私がしなければならない所を」
 馨君は佐保宮という言葉に真っ赤になって、そのようなことは…と口ごもった。やはり水良と…気持ちを探るように惟彰が馨君をジッと見つめると、馨君は惟彰と視線を合わせないまま答えた。
「世話と言っても、私は女房たちに指示するばかりで…あの、佐保宮さまにはもう会われましたか」
 俯いた馨君の白い首筋が露になって、惟彰はまだだけど…と呟いた。眉を寄せて馨君を見つめると、そばにいた時の大輔が笑いながら馨君の肩を叩いた。
「今夜会わずとも、佐保宮さまには常に東一条邸で会えるだろうに。佐保宮さまが内裏を出られてから、私たちは馨君を佐保宮さまに取られたようで寂しい思いをしているのですよ」
 時の大輔の言葉が、まるで自分のことを言われたような気がして、惟彰は一瞬口をつぐんだ。頼んでおいて申し訳ないことだが、他の方のことも忘れないでおくれと惟彰が言うと、馨君はすみませんと素直に謝って目を伏せた。
「時の大輔どの。馨君をお借りしても構わぬか」
 惟彰が尋ねると、時の大輔はどうぞどうぞと言って馨君の背中を押し出した。
「私は弟宮の様子を見に行きますので。今晩の笛は父ではなく弟の椿の宮があたらせていただいているのです」
「そうだったのか。すまないな。私も後でゆっくりと聞かせてもらおう」
 そう言って惟彰が馨君の華奢な手を取ると、馨君はすぐに戻ると時の大輔に言って歩き出した。梨壺にも無沙汰をしてしまいました。馨君が言うと、芳姫は元気にしているよと答えて惟彰は馨君の手首をグイと引っ張った。
「春宮さま!?」
 清涼殿の外れまで来た時、ふいに御簾の内に押し込まれて馨君は声を上げた。自分も御簾の内に入ると、中にいた女房に外してくれと頼んで惟彰は馨君の手をまたつかんだ。女房たちが廂へ出て行くと、惟彰は馨君の両手首をつかんでその顔を覗き込んだ。
「馨君…水良と何があった」
「え?」
 かすれた声で馨君が尋ね返すと、馨君の下襲ねの裾を踏んで惟彰は眉をひそめた。
「私は芳姫を悲しませたくない。そなたの妹君で…やはり妃として大事に思っているからだ。でも、だからといって躊躇するのではなかった」
「春宮さま?」
「…そなたを愛している」
 一瞬、頭の中が真っ白になった。目の前の惟彰の顔を見上げると、馨君は声も出せずに固まった。愛、してる、って。惟彰にギュッと両腕をつかまれてその痛みに我に返ると、馨君はあわてて答えた。
「で、ですが、私は男にござります! おっ、男なれば…それに、惟彰さまにはすでに妃がっ」
「みな私の意志とは関係なく内裏に入った人たちばかりだ。それぞれに大切には思っているが」
「芳姫は! よ…芳姫にはお文を」
 しどろもどろになって馨君が言うと、惟彰は軽く笑って馨君の体を抱きしめた。腕の中にすっぽりと収まる体は夢に何度も見た芳しい香りがした。愛おしそうに頭を抱いて目を閉じると、惟彰はその耳元に息を吹き込むように囁いた。
「ずっと誤解していたのだ。そなたも悪いのだぞ。初めて見た時に姫君の格好などしていたから」
「あ、あれは…ただ戯れに芳姫と衣の交換を」
「おかげで私は、そなたを芳姫だと思ってずっと文を送っていたのだ」
 息を飲んで、馨君は抱きすくめられたまま、そんな…と小さく呟いた。芳姫の顔がちらついた。お戯れはおやめ下さりませと惟彰を押し返して、馨君は裾を踏まれていることも忘れてその場を離れようとした。その途端、裾を引っ張られてドッと床に倒れ込み、上から惟彰に覆いかぶさられて馨君は身を縮めた。
「や…っ」
 惟彰の重みがかかって、あわてて起き上がろうと馨君がうつぶせのまま床に腕をつくと、その手をつかんで引き寄せ惟彰は馨君の頬に口づけた。そのまま首筋に唇を滑らせて吸うと、馨君が首を横に振った。水良…水良! 思わず心の内で名を呼んでギュッと目を閉じると、惟彰の額が背中に押しつけられて馨君はそろそろと目を開いた。
「これ…あきら、さま?」
 抱きすくめられたまま馨君が恐る恐る名を呼ぶと、静かに呼吸を繰り返して惟彰は呟いた。
「馨君…私は、芳姫に皇子を生ませようと思う」
「惟彰さま」
 驚いて馨君が振り返ると、その顔を覗き込むように見て惟彰は馨君の白い頬を両手でそっと挟んだ。
「芳姫の生んだ皇子を次の東宮にするつもりだ。芳姫は左大臣の一の姫なれば…私が主上となる時には中宮としてお立ちになられる。そうすれば誰も反対できる者はいないはずだ」
「…あなたさまは、それで…惟彰さまがそれをお望みであるならば」
 頬をなでられ、馨君は真っ赤になって息も絶え絶えに答えた。その大きな目をジッと見つめると、惟彰は視線を伏せ、それから馨君の額に優しく口づけた。
「そなたのためだ」
 馨君が息を飲むと、惟彰は馨君の首筋に額を押しつけた。そのまましばらくジッと息をひそめると、惟彰は目を細めて口を開いた。
「一度でいい…私と契ってはくれまいか」
 指先が冷たくなって、馨君はボーッとする頭を必死に働かせて言葉を探した。契るって…男同士で!? 俺が惟彰さまと? 指先を震わせて声を失っている馨君に気づくと、惟彰は身を起こしてため息をついた。そこまでは考えられないか。
「…すまない」
 馨君の手を引いて起こすと、馨君は我に返ってあわてて立ち上がった。そのまま後ろに一歩引いてそこに置いてあった几帳にぶつかると、そこをつかんで馨君は目を伏せた。
「私は…まだ、そのような、あの…私には」
「水良がいるからか」
 惟彰の言葉に、胸を射抜かれたような気がして馨君は黙り込んだ。好きだ。そう言った水良の声が耳の奥に蘇って、馨君は首を横に振った。はっきりと否定しておかなければ。馨君はその場に平伏すると恐れながらと口を開いた。
「佐保宮さまは惟彰さまもご存じの通り、私にとっては幼なじみにも等しいお方にございます。私も惟彰さまと同じように、佐保宮さまのことは弟とも思っております。お世話させていただいたのも、父より藤壺さまのお役に立つよう言いつけられたからで…」
 惟彰と水良の仲を、自分が裂くような真似だけはしてはならない。事実、どうであるかということではなく、惟彰がどう思うかだ…。懸命に言いつのった馨君の姿をジッと見つめると、惟彰は黙り込んだ。今思っているのは、水良のことか。水良の立場か。あんなに可愛がっていた弟が…今、自分が唯一慈しみ愛する者を奪おうとしている。
「…もうよい。そうまで言うのなら、東一条邸も完成した今、足繁く通う必要もあるまいな」
 惟彰が言うと、馨君は顔を伏せたまま黙り込んだ。水良。ギュッと目を閉じると、馨君ははいと答えて顔を上げた。
「私も肩の荷が下りましてございます。月見の宴が終わりましたら、少しは落ち着きましょう」
「そうか。私の言ったことは忘れて、また梨壺にも遊びに来てくれ」
「もったいないお言葉にございます」
 馨君がまた頭を下げると、惟彰は馨君の前に膝をついた。ドキンとして馨君が息を詰めると、惟彰は懐から蝙蝠を出して馨君の胸元に差し入れた。
「すまなかった」
「…」
 馨君の頬に触れて名残惜しそうに離すと、惟彰は御簾を押して隙間からするりと外に出ていった。
 何だ…何なんだ。
 その場に伏せて、馨君は大きく息をついた。まだ胸がドキドキしていた。芳姫を自分と取り違えていた? それじゃ…あの頃から、春宮さまは俺を思ってたって言うのか。
 あり得ない。涙のにじんだ目を袖で拭って、馨君はまた息をついた。おまけに水良との関係を勘ぐられてしまった。あの口調じゃ多分、昨日今日そう思いはじめたんじゃないんだろう。惟彰さまは多感な方ゆえ、何か感じることがあったのかもしれない。
 いずれ主上となる惟彰から疎まれたら、いくら異母弟だからってちゃんとした後見を持たない水良に不利益なことが起こりかねない。惟彰が何も言わなくても、たとえ些細でもことあるごとに積み重ねられたそれはいずれ形となって現れるだろう。
 顔を上げると、馨君は立ち上がった。ゴシゴシと目元を袖で拭って、惟彰に賜った蝙蝠を胸元で押さえて馨君は呼吸を整えた。それも俺次第なんだ。俺がどうするかで、水良の運命まで変わってしまうかもしれない。
 御簾をめくって外に出ると、月見の宴は管弦から前裁合わせに移っていた。冠を正して下襲の裾をさばくと、馨君は時の大輔の待つ孫廂を探して歩き出した。

 
(c)渡辺キリ