大祓
 

 久しぶりに春宮のお渡りがあると女房から知らせを受けて、常よりも美しく着飾った梨壺(喜子)が母屋で待っていると、まるで蝶が飛び込むように春宮が御簾を上げて入ってきた。
「春宮さま! ようこそおいで下さいました」
 梨壺が頬を火照らせると、春宮は目を細めて、すまないがちょっと場を貸してもらえぬかと言った。
「まあ、てっきり私に会いに来て下さったのかと思いましたのに」
 肩をすくめていたずらっぽく言うと、梨壺は立ち上がり、春宮さまのお言葉を聞いたでしょうと、女房たちを促した。後でゆっくり話そう。そう言って梨壺の手を柔らかく握ると、春宮は上座に腰掛けてあぐらを組んだ。数人の女房を残して他の皆が梨壺と共に母屋を出ると、入れ替わりに別の女房が頭中将の訪れを告げた。
「春宮さま、お呼びと伺いましたが」
 春宮よりも四歳年上の頭中将は二十一歳の美丈夫で、崇時とも参内した時からの親友同士だった。ゆったりと優雅な所作で下座に腰を下ろすと、頭中将は平伏した。
「先ほど、崇時どのとすれ違いましたが」
「そうか。淑景舎の元を訪れていたのだろう」
「ええ、仲のよいご姉弟であられますゆえ」
 頭中将がそう言って面を上げると、春宮は雅光と名を呼んで尋ねた。
「そなた、暁の宮を知っているな」
 あまりにも突然の名で、頭中将が口をつぐむと、春宮は隠さずともよいと続けて蝙蝠を弄んだ。
「本人に会うたのだ」
「…!」
「東一条邸に何度か行ったことがあるのだろう。あの宮は、主上の一の宮だな」
 脇息にもたれて春宮が言うと、頭中将は視線を伏せ、それから仰せの通りにございますと答えた。
「あの方は、主上と前弘徽殿女御さまの一の宮さまでございます」
「前弘徽殿…弘徽殿に女御がいたのだな。幼い頃、聞いたことがあったけど」
「…」
「前弘徽殿女御とは、どなたの?」
 春宮が尋ねると、頭中将はどうかお人払いを…と低く呟いて平伏した。春宮が視線を上げると、女房たちがさやさやと衣擦れの音をさせながら下がって行った。最後の一人の衣が御簾の隙間からすっと姿を消すと、頭中将は面を上げて立ち上がった。
 少し近づいてそこに円座を敷き、あぐらを組んで座る。
「前弘徽殿女御さまは…皇子さまご出産の折りに亡くなられた方で、佐保御息所さまの姉君に当たられる方でございます」
「佐保御息所の…姉君はお一人ではなかったのか」
 今は出家したと聞く佐保御息所の姉姫のことは、耳にしたことがあった。三条の大臣から後見を受けて男君をもうけた佐保御息所と違い、今はひっそりと尼寺で暮らしていると。
「いえ、二の姫さまは今主上の元へ入内されておいででした。しかし…」
「何だ、申してみよ」
 口ごもる頭中将にイライラして、春宮は強い口調で尋ねた。その場に座り直して懐紙で額を拭うと、頭中将は視線を伏せたまま答えた。
「何者かが生まれたばかりの皇子さまをかどわかして出奔し、その後すぐに主上の気に入りだった当時の左近衛中将どのが失踪するに至り、内裏だけでなく都中が大騒ぎになったと聞いております。その後、皇子さまが見つかるならばこの身捧げましょうと、左近衛中将どのが仏に祈りを捧げたという話を、主上が耳になさったとも…」
「主上の気に入りの中将? そのような話、聞いたことがない」
 春宮が驚いて身を乗り出すと、頭中将は眉をひそめて唇を引き結んだ。
「その気に入りの中将とやらが仏に祈りを捧げたなどと、誰が主上に申し上げたのだ」
 春宮の声に、頭中将は春宮をジッと見つめて答えた。
「三条の大臣どのでございます」
 言葉を失って、春宮はストンとまた茵に腰を下ろした。なぜ、大臣が。しばらくして乾いた声が響いた。真っすぐに春宮を見つめると、頭中将は答えた。
「失踪した左近衛中将どのは、三条の大臣どのの兄上であらせられました。梅の香りの中お生まれになられたので、都では皆、白梅の君と」
 白梅の君。
 私の…伯父上。
 絵巻を思い出して、春宮はよもや主上は本気にされてはおるまいなと掠れた声で尋ねた。白梅の君が失踪し、かどわかされた皇子が見つかったからといって、本当に仏の導きだとは。
「主上は全て自らの到らぬためと仰せになり、長年ずっと悩んでおられたと聞いております。その後、皇子さまをかどわかしたのが皇子さまのご一族の一人だったため、佐保御息所さまの父上が、皇子さまを連れて内裏をお出になられたそうでございます。三条の大臣どのも、余計なことを主上のお耳に入れてしまったと仰って…皇子さまのためにいろいろと手を尽くされたのですが、主上がかの宮さまを親王としてお認めになられることは、とうとうございませんでした」
「バカな…それでは、私は!」
 思わず立ち上がって、春宮は真っ赤になって肩で息をついた。それでは、世が世なら…白梅の君が失踪しなければ、今ここにいたのは暁の宮だったのでは。
「それは違います。どちらにせよ、あなたさまは春宮となられておいでだったのですよ。皇子さまが、もしかどわかされずにいたとしても」
「しかし」
「母上さまのご後見であられたあなたさまの祖父上さまは前太政大臣どの、そして今、ご後見されておられるのも三条の太政大臣どので、お輿入れされた姫君も、共に大臣どのの娘でございます。大内でも都でも、皆があなたさまを慕っております」
 ペタンと茵に座り込んで、春宮は視線を落とした。
 私と会った時、暁の宮はどう思っただろう。
 少なくとも…喜ばしく思った訳ではあるまい。
「春宮さま!」
 立ち上がって母屋を大股で出て行った春宮に、頭中将が慌てて声をかけた。立ち止まって振り向くと、春宮は追ってきた頭中将の腕を強くつかんだ。
「すまぬ」
「春宮さま」
「暁の宮を訪ねたい。内密にだ。そなたに伴を頼みたい」
「それはなりません」
「連れて行くだけでいいのだ」
 ギュッと頭中将の腕をつかんで、それから春宮は手を離した。これきりにして下さいませ。呆然とした表情で答えた頭中将に、春宮は頷いた。

 
(c)渡辺キリ