大祓
 

 その日、頭中将は急いでいた。
 春宮を誰にも見つからないように車に乗せ、東一条邸へ安全に届けなければならない。自分も同乗して随身をつけ、あくまで自分の訪問と見せかけなければならない。
「参上いたしました」
 案内してきた女房を帰して、梨壺の庇に平伏して頭中将が言うと、一人の女房が蝙蝠で顔を隠して奥から出てきた。ありふれた色の唐衣に羅の裳を身につけ、手に持った蝙蝠は歌を書きつけた地味な物で、それでも優雅な立ち居振る舞いから高位の者に仕える女房だと見る者に思わせた。顔を上げると、頭中将は腰を抜かしそうになってひっと声を上げた。
「参ろう。内大臣や崇時が来てはまたうるさい」
 低い声が蝙蝠の内から響いた。は、春宮さま、そのお姿は。狼狽した頭中将を呆れたように見ると、春宮は名を呼んでは周りに分かってしまうではないかと言った。
「初梅と呼べ。行くぞ」
 そう言って袴を捌くと、春宮は先に立って静々と歩き出した。
 どこからどう見ても、頭中将を先導する女房にしか見えない。
 蝙蝠を胸元に挿し、俯き加減に歩く平凡な女房に注目するような者はおらず、頭中将に気づいて殿上にいた公達はようやく愛想よく頭を下げる。皆、気づいておらぬのか。ドキドキしながら女房の後をついて歩くと、ふと春宮が振り向いて、どこへと小さな声で尋ねた。
「あ、では待賢門へ」
 頭中将が言うと同時に、前から崇時が大股で歩いてくるのが見えた。さっと蝙蝠を出して広げ、顔を隠すと、春宮は小さくお辞儀をして道を開けた。
 春宮さまが道を開けられるとは。
 それだけで卒倒しそうになって、頭中将はやはり戻りましょうと囁いた。その瞬間、崇時が頭中将に気づいてにこやかに話しかけてきた。
「雅光、春宮さまの所へ?」
「ああ、いやまあ…そんな所だ。崇時も?」
 胸がはち切れそうになって頭中将がしどろもどろに尋ねると、春宮が気づかれないように注意しながら思いきり頭中将の足を踏んだ。イッと声を上げそうになって頭中将が青くなると、崇時は首を傾げてポンとその肩を叩いた。
「おかしなヤツだな。そうだ、お前からも春宮さまに言っておいてくれよ。我が姉君のみならず、梨壺さま(喜子)まで袖にしているとバチが当たりますよと」
「そんなことを言って…あ、いや。まあ申し上げておこう」
「最近、あまり家に来てくれないな。大姫も小姫たちも皆寂しがってるぞ」
「そうか。またいずれ絵巻など持って参じよう」
「必ずだぞ。そうだ、七夕にはうちでも内々に宴をするんだが、お前の所へも使いをやっておこう。来るだろ?」
 そう言った崇時に頭中将が頷くと、必ず来いと笑い、崇時はまた梨壺に向かって歩き出した。それを見て頭中将がホッと息をつくと、隣にいた春宮がボソリと呟いた。
「楽しそうだな」
 それだけ言って、ムッとした表情で歩き出す。
「春宮さま…」
「初梅だ」
「初梅どの、あなたさまに大事があれば、私どもは」
「分かっている。だが、七夕の宴には私も行くぞ。忍んでいけばよかろう」
 ふてくされたように言った春宮の髢を見て、頭中将は分かっておられぬではないかとため息をついた。なりませぬ。ゆっくりと言い聞かせるように答えた頭中将にしてはいけないことだらけだとぶつくさ文句を言うと、春宮はまたしとやかに静々と歩き出した。

 
(c)渡辺キリ