大祓
 

 初めは頭中将の訪問と告げられ、寝殿の庇に通して応対していた佐保御息所だったが、内裏から伴をしてきたという女房が、長い挨拶にうたたねをしてガクッと頭を揺らした辺りで気づき、もしやあなたさまはと囁いた。
「いや、これは…」
 言われるまで自分の正体は明かさないようにと固く口止めされていた頭中将は、懐紙を取り出して額に浮かんだ冷や汗を拭った。御息所が女房を下がらせると、頭中将の後ろに控えていた春宮は申し訳ないと言って笑った。
「どうしても、あなたに会いたくて」
「まあ…お戯れを、春宮さま。どのような御用かは分かりかねますが、気軽にこちらへおいでになられては」
「こうでもしなければ、どうにもままならぬ」
 そう言って苦笑すると、頭中将を見てそなたも下がってくれと頼んだ。簀子へ出て深く平伏すると、頭中将は女房を呼んだ。御息所が東へと頼むと、やってきた古参女房は頭中将を東の対へ案内した。
「どうか上座へ」
 蝙蝠で顔を隠しながら御息所が上座を降りると、春宮は構わぬと答えて足を崩した。
「女房姿で上座もあるまい。御息所、今日ここへ来たのは暁の宮に会うためなのだ。ここでもよい、西でもよいから話をさせてくれないか」
 気が急いているのか単刀直入に言って、春宮は御息所を見上げた。まあ…と言ったきり言葉を失って、御息所は几帳の端をつかんだ。
「どこでその名を…? もしや、以前いらした時に」
「どこで、誰からとは明かせぬ。どうか…何も言わずに話をさせておくれ」
 頼む。そう言って、春宮は頭を下げた。どうか頭をお上げになって。そう言って、御息所は蝙蝠を手にしたまま春宮の肩をつかんだ。驚いて春宮が顔を上げると、御息所は子供の頃に対面した時と同じように美しく、艶やかな目をしていた。
「誰か、女房どのを西の対へ案内しておくれ。そして人払いをお願い」
 御息所が声を張り上げると、古参女房がしとやかにやってきて簀子に平伏した。私が参りましょう。女房が言って先に立つと、春宮も立ち上がって御息所を見下ろした。
「すまぬ…どうかこのことは内密に」
 小さな声で囁くと、春宮は古参女房の後について西の対へ向かった。
 いつかこんな日が来ると、こんな日が来ればいいと思っていた。
 几帳のそばで大きく息をつくと、御息所は上座にしつらえられた茵に座って脇息にもたれた。いつまでも子供なら、何も案ずることなどない。けれどいつか小君も大きくなって参内を始めれば…ここにいるより三条邸へ迎えられた方が、あの子のためになる。
 一の宮のそばにいない方が、参内する身にとってはいいのだ。
 けれど、そうなれば…一の宮の後見は誰に頼めばいいのか。
 一の宮を引き取って以来ずっと悩んできたことを、あの方なら何とかして下さるかもしれない。
「御息所さま、頭中将さまを東へお連れいたしましたが」
 戻ってきた女房が声をかけると、御息所は顔を上げ、しばらくおられるだろうからおもてなししてちょうだいと答えた。かしこまりました。そう言って女房が下がると、御息所は大きく息を吐いて脇息にもたれて目を閉じた。

 
(c)渡辺キリ