大祓
 

 いつもなら優雅に音もなく歩く簀子を、今にも駆け出しそうなほどドタドタと音を立てて早足で歩いた。
「春宮さま! どうか…お待ち下さいませ!」
 後ろから崇時が抑えた声で咎めた。頭中将や女房も、慌てて後を追いかける。
 相変わらず梨壺に籠っていた春宮の無聊を慰めようと、崇時中将や頭中将が絵巻物を持って機嫌伺いに来ている時のことだった。
 ふいに梨壺の女房たちがざわつき始めた。ゆったりとした内裏の女房たちにしては珍しいことで、崇時が一人を呼んで事情を聞くと、女房ははっきりとは分かりませんがと前置きをしてから、三条の大臣が主上にそっくりな若公達を伴って、清涼殿を訪れていると告げた。
「そなたたちこそ、ついてくるな!」
 歩きながら振り向いて春宮が言うと、崇時はそうは参りませんと強い口調で答えた。勝手にしろ。ムッとしてまた前を向くと、春宮は清涼殿の女房を探して、三条の大臣はどこかと尋ねた。
「ただいま御前に…なれど、人払いをと大臣が」
「構わぬ」
 短く吐き捨てるように言って、春宮は清涼殿に飛び込んだ。
 春宮さま!と女房たちの声がする。
「…暁の宮」
 昼の御座の前に、三条の大臣が控えていた。
 そして、その斜め前に鎮座している暁の宮が、春宮の声に気づいて視線を上げた。目が合うと、暁の宮は柔らかく微笑んだ。まるであの夜のように。
「主上、どうか私を臣籍へ。源の姓を賜り下さいませ」
 春宮や崇時、他の女房たちの訪れにも構わず、暁の宮はそう言ってその場に平伏した。御前でありますぞ。淡々と三条の大臣が言うと、春宮以外の者たちが下がって平伏した。
 何を言ってるんだ。
 一歩前へ出ると、春宮は駆け寄って暁の宮のそばに膝をついた。暁の宮の表情はいつものように穏やかで、何の曇りもなかった。春宮さま。三条の大臣が低い声で呼ぶと同時に、それまで黙り込んでいた主上が答えた。
「親王宣下を下されなかったことを、恨んでおるのか」
「いえ、そのことで主上をお恨み申し上げたことは、一度もございません。もとより主上だけの一存では決められぬこと」
「え?」
 驚いて春宮が尋ね返すと、暁の宮は視線を春宮へと向けて頷いた。
「確かに…そなたを親王とした所で確かな後見もなく、誰ぞに利用されるぐらいなら、そのままにしておいた方がと皆は申したが…」
 昼の御座から、主上の低い声が響いた。それでは、ただ主上から疎まれてのことではなかったのか? 春宮が暁の宮の腕を無意識につかむと、暁の宮は口を開いた。
「春宮さまを差し置いて、他の者が私を担ぎ出そうとするとはよもや思えませんが、私が源へ下れば、より春宮さまのお立場は確固たる物になりましょう。それに…私は臣として、春宮さまを支えていきたいのです」
「暁の宮」
「このまま宮として、東一条邸で守られながら生きていくことよりも…私は慈しむ方をお守り申し上げたいのでございます」
 どうか、私に姓を。振り絞るような声で言うと、暁の宮は平伏した。
 その力を…あなたがくれた。
 あなたは新しい風を私の中へ吹き込んでくれた。燃え尽くすような恋情を。
 私は、何を返せばいいだろう? 初めてそう思うことができたのだ。
 あなたのために。
「…三条の大臣。公卿の皆と評議の末、一の宮の処遇を決めるがよい」
 それだけ言うと、主上は立ち上がった。主上。春宮が呼び止めると、主上は昼の御座からゆっくりと出て暁の宮を見つめ、それからしばらく休むと言いおいてその場を去った。頬を真っ赤にしてその様子を見ていた暁の宮が、ふいに春宮の手をつかんでギュッと握りしめた。その痛みに顔をしかめると、強く手を握り返して春宮は暁の宮を目を細めて見つめた。

 
(c)渡辺キリ