大祓
 

 三条の大臣の二の姫が東宮妃として入内してから、梨壺は毎日が祭のように騒がしかった。
 二人目の東宮妃は、今をときめく太政大臣の愛娘。もう一人の東宮妃は内大臣の娘で、こちらも内大臣から慈しまれている。欠くべからざる二人の大臣に挟まれて、妃のことは憎からずどころかどちらにも同じぐらいの愛情を持っていても、内裏中からその動向を見守られては、いくら万事大ざっぱで鷹揚な春宮でも、いい加減うんざりする。
 特に新しい東宮妃の喜子が梨壺に入ってからは、機嫌伺いと称して様子を見に、時の内大臣が一の君の右近衛中将崇時を連れ、毎日のように梨壺を訪れる。
 今日も朝餉を済ませた春宮の元に、調子はいかがですかと内大臣が訪れ、天気の話から京の大路の様子まで、にこやかな表情で多弁をふるった。
「全く、内大臣の姫は淑景舎にいるというのに、どうして梨壺にいらっしゃるのだろう。用があるなら、淑景舎へでも呼びつければいいのに」
 崇時中将を残して帰っていく内大臣の背中を、庇へ顔を出して見送ると、春宮は肩を竦めてため息をついた。そのふっくらとした唇から出た愚痴を笑って聞き流すと、崇時中将はあぐらを組み直して答えた。
「春宮さまを呼び出すなど、恐れ多いことでございますよ」
「私は構わないよ。内大臣どのが訪れるたびに、梨壺が遠慮をして奥へ引きこもってしまう。それでは気の毒だ」
「仕方ありますまい。父上が梨壺へおいでになると仰れば、お供せぬ訳には」
「お前のことは怒ってないよ、中将」
 軽い息をついて、春宮は女房に頼んで碁盤を出させた。あの二人よりもそなたの方が碁が上手いからな。そう言って嬉しそうに碁石を渡した春宮を眺めると、崇時は目を細めた。
 今主上は聡明の噂高く、都をよく治め、下京の治安もよくなり人々から慕われ崇められている。
 その主上と、時の権力者である三条太政大臣の姉、藤壺中宮より無類の愛情を注がれて育った春宮は、ふっくらとした赤い唇に大きな目が愛らしく、素直で活発な性質で内裏の女房や殿上人たちから愛されている。
 両親に溺愛されたゆえの曇りのない明るさと、梅の精もかくの如くと言われるほどの美しい外見で、内裏中からちやほやされている春宮は、時に我侭を母からたしなめられることがあるぐらいで、特に憂いのない華やいだ生活を送っていた。
「そういう方が、以前にもいらっしゃったのだって?」
 さりげなく口にして、春宮は碁石を打ちながらそばにあった干しなつめを口に入れた。目を伏せた春宮に、存じ上げませんがと崇時は答えた。
 こいつもだんまりか、それとも本当に知らないのか。
 幼い頃から、宜陽殿に納められた絵巻を玩具代わりに育ってきた。人目を忍んで何度も開いたその巻き物には、なぜか自分の姿が描かれていた。そこには、青年となった自分が白梅の枝を手に持ち、梅の木の下で佇んでいた。
 それは儚く、この世のものとも思えないほど幽玄で。
 会水と印の入ったその絵巻物について、教えてくれる者はいなかった。けれど、人の口に戸は立てられぬもの。大きくなるにつれ、自分にそっくりな伯父がいたこと、そしてその伯父が十七の年に失踪したこと、それを追うようにして、主上の弟宮、前春宮も姿を消したことが少しずつ分かってきた。
 いつもにこやかで、わが子のように自分を可愛がってくれた前春宮のことはわずかに覚えていた。東一条邸から前春宮が姿を消した時の、内裏の混乱も。
 しかし、その時何があったのか。そこまでは誰に聞いても分からない。
「白梅の君と呼ばれていたそうだよ」
 そう言って立ち上がると、碁の途中で春宮は庇へ出た。春宮さま。崇時中将が声をかけると、春宮は振り向いて軽く笑った。
「せっかく中将が来てるのだから、やっぱり淑景舎でやろう。そなたの姉上も、弟君が来るといつもより陽気になられるから」
「そうでございましょうか」
 崇時が答えると春宮は笑って、よほど可愛い弟君と思っておられるのだろうと言った。スタスタと歩き出した春宮を見て、周りにいた女房たちが慌てて先導した。内裏は好きだが時に窮屈で適わない。みんなには聞こえないようにわずかに息を吐き出すと、春宮は庭のあじさいを眺めた。

 
(c)渡辺キリ