そのまま淑景舎で夜を迎えた春宮は、女房たちからもういいというぐらいの歓待を受け、早々に床に入った。
崇時中将の姉である淑景舎は、母に似ておっとりとして引っ込み思案だったが、春宮の添臥しとして入内したため、春宮とはもう五年以上も連れ添っていた。未だに心の底から打ち解けた様子はなかったけれど、崇時中将が来た時は軽口も叩くから、根は明るい人なのだろうと春宮は思っている。
「姫、今日は楽しかったですか?」
一つ衾に入って春宮が尋ねると、淑景舎は恥ずかしげに頷いてわずかに身を寄せた。春宮よりも三つも年上の淑景舎は、最近、梨壺に入ったばかりの喜子がまだ十五歳と若く愛らしいと聞いた内大臣から、一日も早く皇子出産をと文でせっつかれていた。
そんなこと言われても…こればかりは分からないことだわ。
そうは思いつつ、やはり喜子に寵愛を奪われるのではと心配になる瞬間もある。
「とても楽しゅうございましたわ。春宮さま…あの、来ていただけて、本当に嬉しく思ってますのよ」
「姫、あなたが入内して、梨壺では狭かろうと気を使ったつもりだったんだよ。主上となる前に、まさかもう一人妃を入内させることになるとは、思っていなかった。我慢ばかりさせてすまないが…」
そう言って、春宮は淑景舎の長く豊かな髪をなでた。三条の大臣どのの姫を梨壺へ入れたこと…気にしてらっしゃるのかしら。黙ったまま春宮を見上げると、淑景舎は笑みを浮かべた。
「春宮さま、父上が次の満月の夜には、こちらで笛を合わせようと。春宮さまもいらして」
「それは楽しそうだね…私も、内大臣の笛が聞きたい。そう言っておいてくれ」
そう囁いて、春宮は手を伸ばした。腕の中に淑景舎を抱くと、うっとりとするような香りを吸い込んで春宮はふふっと笑った。大臣がどうの世継ぎがどうのと余計なことを考えなければ、姫は可愛い。特に淑景舎は、打ち解けてはしゃぎ合うような関係ではないにせよ、共に過ごした五年という時間は、妃として親しみを感じるに十分な年月だった。
淑景舎で甘やかな一夜を過ごした春宮は、夜が明ける前に手早く身支度を済ませて梨壺に戻った。見送る淑景舎の女房が、行ってらっしゃいませと平伏した。戻る途中の渡殿で庭に視線をやると、春宮はふいにひょいと高欄を越えて裸足のまま庭へ下りた。
「は、春宮さま!」
そばにいた女房数人が、血相を変えて高欄に駆け寄った。すまぬが庭を回っていくよ。おかしそうに笑って、春宮は駆け出した。生まれてからずっと内裏暮らしで、特に梨壺の周りは知らない所がないほど、あらゆる所を行き来していた。慌てふためく女房たちを置いたまま庭を裸足で歩いていると、あじさいの生け垣の間にかたつむりを見つけて、春宮はそれを覗き込んだ。
「って!」
その途端、落ちていた小さな枯れ枝が柔らかな足の裏に刺さって、春宮は声を上げた。慌ててその場に座り込んで足を抱えると、刺さった枯れ枝のせいで血が出ていた。あーあ、ついてない。そっと枝を払っていると、ふいに梨壺の方から低い声が響いた。
「春宮さまはおいでか!」
げ、中将か。また内大臣と来たのかな。
慌てて逃げようにもそこには隠れるような場所もなく、春宮がきょろきょろしていると、崇時が駆け寄ってきた。春宮さま、いかがなされました。そう尋ねて、足の傷に気づく。
「春宮さま!」
驚いて声を上げると、殿上から春宮を探しにきた内大臣が、多くの女房を従えてやってきた。父上! 声を上げた崇時に慌ててシーッ!と春宮が声をかけたが遅く、内大臣が座り込んだ春宮の足を見て舎人を呼んでこいと女房に指示した。
その後は目を塞ぎたくなるようなてんやわんやの騒動で、大丈夫だという春宮を崇時の指示で舎人が抱き上げ、梨壺に担ぎ込んだ。足の裏の小さな傷は、人々の噂で歩けないほどの大怪我として内裏に伝わってしまった。傷の手当が済むと内大臣によって陰陽師が呼ばれ、枝を踏んだのはあれやこれやと尤もらしい理由まで告げられる頃には、春宮はすっかりふてくされて、脇息に身を投げ出すように寄りかかっていた。
大げさだと言うのに。
物忌みの札をぶら下げて、御簾も四方下ろされ、春宮は母屋の真ん中で鎮座していた。それもそのうちバカバカしくなって、ため息をつく。
皆がこうして大切にしてくれるのは、ありがたいことだ。
でも、ちょっと枝を踏んだぐらいで物忌みになっては、先が思いやられる。せっかくだから手遊びに絵でも描こうと、硯と紙を出すよう女房に頼むと、春宮はさっき見たかたつむりの絵を描いた。それからその後ろに花をつけたあじさいを描くと、筆を置いてため息をつく。
三条邸のツツジ、今年は見に行けなかったな。
東の対からツツジを眺めて、若葉をからかいながら一杯飲むのが好きだったのに。
考えれば考えるほど、いてもたってもいられなくなった。そばにいた女房に、お付き女房で今は局に下がっている初音を呼ぶよう頼んだ。以前使った手だが、まだ有効かな。考えると楽しくなって、春宮は初音が来るまではと、また筆を手に取って今度はツツジの絵を描き始めた。
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