大祓
 

 長雨がわずかに明け、三条邸の庭では光が差し込んで遣水が輝いている。
 朝の日課にしている日記を書きながら、内裏にあるあじさいとは違う小降りの花つきを眺めて三条の大臣は目を細めた。今年も雨がよく降っている。これで夏に日が照ってくれれば、作物もよく実るだろう。考えてまた置いた筆を取ると、女房が衣擦れの音を立てて簀子に控えた。
「何用だ?」
 三条の大臣が尋ねると、女房が答えた。
「春宮さまよりお文を預かって参ったと、お使者さまがおいででございます」
「そうか。ではこちらへお通しして」
「はい」
 丁寧に頭を下げ、女房が静々と下がっていった。硯箱に蓋をしてそばにいた女房に渡すと、三条の大臣は庇に円座を置くよう頼んだ。いかような御用であろうか。昨日はおみ足を痛められたと伺ったが、笛の所望かもしれぬ。ふふっと軽く笑みを浮かべていると、お使者さまがおいでにございますと先導の女房が告げた。
 珍しい織りの唐衣に大海の裳も艶やかに、蝙蝠で顔を隠した女房がゆったりと現れた。庇に通され、円座に座って優雅な仕草で平伏すると、かすれた声で春宮さまより文を賜っておりますと告げた。
 …ん?
 怪訝そうな表情で三条の大臣が身を乗り出し、慌てて周りの女房に下がるよう告げた。不審に思いながらも、女房たちが何食わぬ顔でさやさやと衣擦れの音をさせて下がっていった。最後の一人がいなくなると、平伏していた内裏の女房は、にこやかに笑って面を上げた。
「叔父上、ご機嫌麗しゅう」
 その声は美しい女房姿に似合わず、低かった。
「春宮さま…お願いでございますから、ふいのお忍びはお控え下さいませ。その格好で内裏をお出になられたのですか。女車で?」
 がくりと脱力して三条の大臣が尋ねると、女房姿の春宮は笑いながら答えた。
「舎人を何人かつけたけど。初音がうるさくて」
 窮屈なのか、座ったまま唐衣を脱いで裳を外し、春宮は膝に置いた蝙蝠で顔をパタパタと扇いだ。
「お付き女房ならお止めせねばならぬ所を。あなたさまもあなたさまでございますよ。もし何かあれば、女房や舎人たち皆が咎められるのですから」
「うん、ごめん」
 やんわりと言った三条の大臣に、春宮はそれもそうだと素直に謝って目を伏せた。誰ぞ、若葉を呼んでおくれ。大きな声で頼むと、三条の大臣は立ち上がってどうぞ上座へと促した。
「それで、梨壺はどのように?」
 庇に座って三条の大臣が尋ねると、春宮は五つ衣を着たままあぐらを組んで答えた。
「初音と小綾に、御簾を下ろして糸ものでも爪弾いておくように言ってきたよ。朝餉と夕餉も食べておくようにって。歩けないことになってるから」
「昨日、おみ足は大丈夫だと聞いて安心いたしましたが、まさか昨日の今日で、内裏を抜け出して来られるとは思いませなんだ」
「三条邸のあじさいが見たくて。今日は小君はおらぬのか。久しぶりに相撲をとってやろう」
 春宮が言うと、三条の大臣は柔和な笑みを浮かべて答えた。
「普段は別邸におりまする。もう背も大きくなって、漢籍なども読めるようになりました」
「そう。もう随分会ってないものな。久しぶりに会いたいものだ…」
 目を細めた春宮の言葉に、三条の大臣は何か考え込むようにジッと春宮を見つめた。その時、お呼びと伺いましたがと声がかかって、簀子に若葉が現れて平伏した。
「若葉、すまないが直衣を一揃え出しておくれ」
「はい…あら、あらまあ!」
 顔を上げて、若葉は驚いて声を上げた。そして満面の笑みを浮かべると、ようこそいらっしゃいましたと華やいだ声で言って深々と平伏した。若葉、息災か。春宮もにこにこと笑って尋ねると、はいと答えて若葉は目尻を下げた。
「まだまだ若い者には負けませんわ。春宮さま、まあしばらくお見かけせぬうちに増々ご立派になられて…」
「挨拶はいいから、早く着替えさせてくれ。髢が重くて」
 苦笑いして春宮が言うと、若葉ははいはいと立ち上がって直衣を取りに下がっていった。その後ろ姿に文の用意も頼むと声をかけると、三条の大臣は春宮を眺めた。
「あなたさまがそうしておられると、本当に昔を思い出しますよ」
「なぜ? どなたかこのような女君の姿でも?」
 脇息にもたれて春宮がおかしそうに尋ねると、三条の大臣は軽く笑い返して、若い頃の思い出にございますと小声で囁いた。
「ある夜、胸が騒いで目を覚ましたことがございました。眠れぬゆえ、少し庭でも眺めようと自分で格子を上げようとして、やり方が分からぬので妻戸より外へ出ました」
「女房はおらなんだのか?」
 春宮が尋ねると、三条の大臣は、おるにはおりましたが内気でよう頼めませなんだと答えた。目を合わせて二人でふふっと笑うと、三条の大臣は手に持っていた蝙蝠を開いて話を続けた。
「それで、しばらく簀子に座って笛でも吹こうかと外へ出て。少し寝ぼけておりましたんでしょうな。肝心の笛を忘れたことに気づいて、また妻戸の方へ戻った所で、ある女房の局から、一人の美しい女君が出て参ったのです」
「…それで?」
 思わず身を乗り出した春宮に、三条の大臣はゆったりとした口調で答えた。
「初めは女房かと思うたのですが、その局の女房とは違う者で、私が思わず後を追うと、その女君はまるで夢のごときゆっくりとした歩みで静かに三条邸より出てゆきました…」
「その女君は、どなただったのだ」
 唾を飲んで春宮が小声で尋ねると、若葉が直衣をお持ちいたしましたと声をかけた。分かりませぬ。そう答えて、三条の大臣は立ち上がった。どうぞごゆるりとお過ごし下さいませ。にこりと笑って言うと、三条の大臣は蝙蝠を閉じて懐に挿し、簀子へと出ていった。

 
(c)渡辺キリ