大祓
 

 昼間の話が気になってなかなか寝つけずにいた春宮は、次の日も頭がぼんやりとして欠伸ばかりしていた。三条邸にこうして忍んできた時はいつも、三条の大臣が気を利かせて歓待の宴などもしなかったおかげで、朝からのんびりと一人で朝餉を食べることができた。
 夕べ、不思議な夢を見た。
 一人の尼君が現れて、自分の頭を柔らかく抱きしめた。すまない、すまないと何度も謝っていた。何がそんなに悲しいのです。春宮が尋ねると、その尼君は主上にすまないと伝えてほしい…と答えて行ってしまった。
 えもいわれぬ、よい香りがした。
「若葉」
 そばに目立たないように控えていた若葉に声をかけると、春宮は何か尋ねようとして口を開き、それから笑って水づけをくれと空になった器を差し出した。春宮さまは本当に、よくお食べになられますのねえ。そう言って、若葉は器を受け取って飯を盛り水を注いだ。
「そのようなお立場でなければ、もっとこちらへおいでになっていただけますのに。私、あなたさまがこちらへ来られるたびに、ずっとここにいていただけたらどんなに楽しいかと思ってますのよ」
「ありがとう。私も何度そう思ったことか」
 器を取ると、春宮は苦笑いしてからさらさらと水づけを口の中へ流し込んだ。本当に、いい食べっぷりでございますこと。嬉しそうに言うと、若葉は春宮を眺めた。
「若葉、あのさ」
 器が空になると、箸を置いて春宮はふと若葉へ視線をやった。聞いていいものか…。少しだけ悩んで、それから春宮は思いきって口を開いた。
「そなた、白梅の君の名を聞いたことはあるのではないか」
 幼い頃、若葉が自分を見るたびにそっと涙を拭っているのを、何度も見たことがあった。大人になってから、あれは自分に行方知れずとなった伯父を重ねていたのだと分かった。春宮が尋ねると若葉は珍しく口ごもり、それからお許し下さいませと答えて平伏した。やはり言えぬか。ため息をついて春宮が悪かったと呟くと、しばらく頭を下げていた若葉が、そのままの体勢で苦しげに囁いた。
「かの君は、私にとっては命とも言えるほど、大切な方でございました。春宮さま、かの君は世に言われるように美しさゆえに神隠しにあわれたのではございません…それゆえに忌み名とされて、都では口にされぬ方が多うございますが、それも、主上がかの君を心の底より愛おしく思われたがゆえのことにございます。どうか、それだけは心にお留め下さいませ」
 いつか話そうと心に決めていたとでもいうように滔々と話すと、若葉は差し出たことを申し上げましたと言ってから顔を上げた。いつものように穏やかな笑みを浮かべていた。
「…ありがとう」
 気づいたら、そう答えていた。まるで誰かが自分の口を借りて話したような気すらした。春宮の言葉に頷くと、若葉は膳をお下げいたしましょうと言って立ち上がった。

 
(c)渡辺キリ