小君に会いに、東一条邸へおいでになられませぬか。
朝餉が終わると、参内の前に挨拶に来た三条の大臣にそう言われた。佐保宮と呼ばれるその小さな宮には、今は前春宮の御息所が住んでいると聞いていた。小君は佐保御息所との子であったか。東一条邸へ向かう牛車の中で初めて思い当たって、春宮は苦笑した。
全く、頭が回らぬにも程があるな。三条の大臣が佐保御息所と『懇意』にしていると聞いたことは何度もあったのに。
いつも三条邸か内裏で会っていたから、小君はてっきり北の方との一の君かと思っていたが。
三条邸からそれほど遠くない所に、こぢんまりとした邸が見えた。手入れのよく行き届いた美しい邸だな。牛車の小窓から覗くと、春宮は牛車が中へ入らずに一度東門の前で停まったことに気づいた。榻を頼むと言って、はやる胸を押さえてもう一度外を覗く。
このような邸を隠していたなんて、三条の大臣も意地が悪いな。
牛飼い童に榻を出させると、門の外で牛車から下りて春宮は頬を赤くした。私は庭を見る、そなたたちは主に挨拶をしてきておくれ。弾んだ声で言うと、春宮は足早に門をくぐり抜けた。
三条の大臣が面倒を見ているのだろうか。あの方はもっと渋好みかと思ってたけど。
庭木の配置や遣水の流れ方が程よく華やいでいて、春宮はそれを眺めながら庭を進んだ。それとも佐保御息所の好みだろうか。水辺に咲いた遅咲きの菖蒲が群生しているのを見ると、春宮はそばに生えていた大きな木にもたれた。
笛を持っていれば、さぞかし楽しかったろうに。
懐紙と蝙蝠しか入っていない懐に手を入れると、春宮は息をついた。内裏は広いし美しい女房も多いが、やはりこういった小さな邸もいいものだ…。考えながら歩き出して空を見上げると、そこには大きな鳥がゆったりと飛んでいて、春宮は眩しそうに目を細めた。
その途端、ぼちゃんと水音がした。
「あ」
気づくと、浅い水の流れに片足を突っ込んでいた。指貫の裾が濡れ、あちゃあと足を抜いて、春宮は屈んで足に貼りついた指貫を恐る恐る離した。その途端、ふいにふふっと笑う声が聞こえて、春宮は驚いて顔を上げた。
あ…。
息を飲んで、目を見開いた。そこには自分の父、主上が立っていた。なぜここに父上が。声も出せずに春宮が若公達を見つめると、その男は柔らかな視線を春宮へ向けた。
「突然、そのように足を突っ込んだのでは、さぞかし泳いでいる小魚たちが驚いたろう。踏みつけておらねばよいが」
違う。
声が違う。よく見ると、年も違う。顔も少し違うし、若い…自分と同じぐらいだろうか。
それでもまじまじと男を見つめると、春宮は一歩後ずさり、何者かと誰何した。何者? 低い柔らかな声で答えると、男は手に持っていた蝙蝠を唇にトントンと当てて、物珍しそうに春宮を眺めてから答えた。
「それはこちらの方が聞きたいが? そなた、何者だ。物盗りにしては随分と呑気なようだし」
ゆったりとした口調で言われて、春宮は真っ赤になった。この者は東一条邸に住んでいるのか。佐保御息所の一の宮? しかし、前春宮との間にも子はなく、そんな話も聞いたことがないが。
春宮は視線を正し、真っすぐに男を見つめた。
「私は…春宮。そなたは何者か」
張りのあるその声で、木にとまっていた鳥が飛び立った。
「成彰」
低い声が響いた。私の名は成彰。繰り返すと、男は西の対へ向かって歩き出した。待て! そう呼び止めて、春宮はさっき自分が足を突っ込んだ遣水に気づいて、それを飛び越えた。名を呼ぼうとすると男はふいに振り返り、またわずかに笑った。
「皆は暁の宮と呼んでいる。春宮さま、あなたもそう呼んで下さい」
そう言って、暁の宮は駆け出した。待って! そう言って後を追いかけたけれど今度は石につまづいて、慌てて体勢を整えて顔を上げた時、もうそこに男の姿はなかった。
暁の宮。
知らぬ。宮家の誰かか。やはり佐保御息所の一の宮なのか。
「春宮さま!」
その時、東の方から雑色の声が響いて春宮は振り向いた。お探しいたしました。はあはあと息をついて言った雑色に、春宮はすまぬと言って歩き出した。
「そなた、この邸の西に住む男を知っているな?」
春宮が尋ねると、雑色ははあと答えて背中を丸めた。
「御息所さまがお預かりしている皇子さまで、私どもは一の宮さまとお呼び申し上げております」
「皇子!? それは主上の皇子と言うことか!?」
真っ赤になって尋ね返した春宮に、雑色は知らなかったのかと驚いて頭を下げた。私からは、これ以上はとても。慌てて答えると、雑色はこちらでございますと春宮を東の対へ案内した。
皇子…いや、しかしあの顔。
そう言われてもおかしくないではないか。あれほど父上にそっくりな方なら、父上のお種であっても間違いはなかろう。それでは…あの宮君は。
「まあ、春宮さま。そのように濡れたままではお体に触ります。どうぞこちらへ」
東の対まで戻ると、待っていた女房が春宮の指貫を見て声を上げた。角盥に張った水で足を拭ってもらいながら、春宮はさっき出会った涼やかな目の男をぼんやりと思い出した。
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