大祓
 

 東の対も室礼の趣味がよく、上座に置かれた脇息も艶やかな漆塗りに控えめな細工がしてあった。こういうのもいいものだな。落ち着いた趣味だし、これは間違いなく三条の大臣の選んだ物だろう。考えながら目を細めて脇息にもたれると、春宮は女房の衣ずれの音に気づいて慌てて身を起こした。
 春宮の前に几帳が立てられ、御簾が下ろされた。佐保御息所さまがおいでにございます。そう告げて、御簾を下ろした女房が簀子に出て平伏した。
「久しいな、御息所どの」
 女房と入れ替わりに、さやさやと衣の音をさせて庇に平伏した佐保御息所の気配に、春宮は姿勢を正して言った。
「春宮さま、お元気そうで何よりでございます。内裏におりました頃の愛らしいみぎりの春宮さまの面影を思い出すと、懐かしい思いで胸が締めつけられるような心持ちがいたします。それも今は昔のこと…ご立派になられた春宮さまに、主上も藤壺さまもさぞかしお喜びのことでしょう」
「御息所、そなたが内裏におられた頃のことはよく覚えているよ。そなたは居並ぶ主上の妃たちにも負けずとも劣らないほど凛とした美しさで、私はいつもそなたと対するたびに、なぜこのように美しい方が主上の元へ入内しなかったのかと思ったものだ」
「まあ、お戯れを。春宮さまもそのようなことを仰るようになられましたのね」
「私は戯れ言は申さぬ」
 春宮が言うと、御息所は手に持っていた蝙蝠で口を隠してホホホと笑った。しばらく内裏の様子を語った後、春宮はふいに尋ねた。
「今日、小君は何をしておいでです」
「春宮さまにお見せすると言って、ずっと寝殿で絵を描いておりますわ。まあ、絵上手の春宮さまにお見せするには手遊びでお恥ずかしいものですが」
「こちらから出向いても構わぬか。御息所どのも特別なことなどせず、どうかゆっくりと過ごさせておくれ。大臣も今宵はこちらへ来られよう。その時は酒など酌み交わしながら、また昔語りでも聞かせておくれ」
「どうぞ、お好きなようにお過ごし遊ばせ。三条どのから文で伺っておりますわ。おみ足の調子はいかが?」
 御息所に言われて、改めて意識した。さっき遣水に突っ込んでしまったのは怪我をした方の足で、濡れた所を綺麗に拭ったものの、しばらくしてズクンズクンと痛み始めていた。大事ない。春宮が答えると、佐保御息所はそれはよろしゅうございましたと答えて微笑んだ。
 それからまた御息所がいた昭陽北舎の庭の今と昔などを互いに話して、それから御息所は慇懃に礼をして下がっていった。元は一族から罪人を出して失脚した大納言の姫君だったと聞くが…三条の大臣の愛人となっていなければ、このような暮らしは望めなかったに違いない。運命とは分からぬものだ。さっき御簾ごしに見た御息所の雰囲気と、凛とした声を思い出すと、春宮は几帳を動かしたり御簾を上げたりしている女房たちを眺めながら、脇息にもたれて笑みをもらした。
 父上は御息所を再び内裏へ迎えるつもりはないらしいが、一部ではその美しさゆえに尚侍として出仕させるのではという噂も飛んでいる。いつも山のようにでんと構えている三条の大臣も、御息所を内裏へという話が出れば、ああのんびりともしていられまい。考えるとおかしくて、春宮は慌てて表情を引き締めた。
「もし、誰か小君の所へ案内しておくれ」
 室礼を整えてその場に控えた女房たちを見ると、春宮は手に持っていた蝙蝠を閉じて懐に入れた。それでは私がご案内いたしましょう。年嵩の女房が優しげな目で申し出ると、春宮はよろしく頼むと答えて目を細めた。

 
(c)渡辺キリ