大祓
 

 西の対の局には、早くも春宮が訪れたと伝わっていて、女房たちは話に花を咲かせていた。たまたま寝殿へ行った女房から、京での噂通りの美しさだと聞いた別の女房たちは、皆そわそわしながら髪を整えたり紅を引き直したりしていた。
「騒がしくて申し訳ありません、一の宮さま」
 暁の宮が東一条邸へ来る前からここで働いている女房の大弐が事の顛末を話すと、暁の宮は読んでいた漢籍を閉じて振り向いた。
「春宮さまがおいでになられるのは、最初で最後になるかもしれぬ。皆もこのように華やいだことがなければ、気が塞ぐだろう。好きにさせておやり」
「一の宮さま、本当に優しいお言葉でございますこと…大弐は御息所さま同様、あなたさまのことを心の底より誇りに思っておりますわ」
 何か言うたびにこれでは。苦笑して、暁の宮はしばらく一人にしておくれと言った。大弐と控えていた別の女房が下がると、寝殿の方から笑い声が聞こえて、暁の宮は立ち上がった。
 庭で何かしているのだろうか。
 少し覗いても様子は見えず、暁の宮は軽く息をついて母屋に入った。さっき読んでいた漢籍を取り上げると、また簀子へ出て庭の方に向かって腰を下ろした。小君が笑う声がここまで聞こえた。あんなにはしゃいでいるのは珍しいな。目を細めて微笑むと、暁の宮はしばらく文字に視線を落とした。
 おじいさまに手を引かれて、一度だけ、主上の元へ上がったことがあったっけ。
 そのそばにいた小さな春宮は、きょとんとした顔で自分を見ていた。年は自分と変わらないのに、まるで人形のようにふくふくとして愛らしかった。あの宮は。考えて視線を上げ、暁の宮は庭の遣水を眺めた。あの春宮は昔、私と出会ったことなどもう覚えてはいまい。
 あれが私の弟だとは…誰も教えてはくれなかった。
 しかし、どこにでも口さがない輩はいるもので、暁の宮の耳にもいつしか自分が主上の一の宮であるという噂は届いた。それならなぜ、自分は春宮になれないのか。その理由も、大きくなるにつれて理解できるようになった。
 春宮が主上と藤壺から溺愛され、内裏ですくすくと育っていると聞くたびに、主上のそばに座っていたあの小さな春宮を思い出していた。
 三条の大臣は何を思い、この邸へ春宮を連れてきたのか。
 …私と会わせるためではあるまいな。ふっと笑って、暁の宮はまた漢籍に視線を落とした。小君ももう十歳だ。春宮の覚えめでたければ、元服して参内するようになった時に何かと有利に働くだろう。叔母上も三条の大臣と小君の二人がいれば、先行きも明るかろう。
「一の宮さま!」
 ふいに庭から声が響いて、暁の宮は驚いて腰を浮かした。寝殿の方から走ってきたのか、小君が赤い顔をして駆け込んできた。その後ろには、しっかりと手を繋がれて引っ張られた春宮が驚いたような表情で暁の宮を見上げていた。
「一の宮さま、女房たちが追いかけて来まする。匿って下さいませ!」
 笑いながら言った小君に、暁の宮も思わず笑ってどうぞと答えた。小君が春宮の手を離して草履を脱ぎ、簀子に上がると、春宮も同じように簀子へ上がって暁の宮を見上げた。大きな目で自分を見上げる春宮を、暁の宮はどうぞこちらへと言って母屋へと引き入れた。几帳を立てかけてその内へ二人を押し込み、暁の宮はまた簀子に置いた漢籍の所へ戻り書物を開いた。
「一の宮さま、おくつろぎの所、失礼いたします」
 慌てている所を無理に抑えたような声で、女房が簀子から暁の宮に声をかけた。何だ。暁の宮が顔を上げると、女房は平伏して、こちらに一の君さまがおいでではございませんでしょうかと尋ねた。
「先ほど庭で姿をお見かけしたが、その後は知らぬ」
 暁の宮が答えると、女房は失礼いたしましたと言ってまた戻っていった。しばらく耳を澄ませてその衣擦れが聞こえなくなると、暁の宮は振り返って几帳に声をかけた。
「行ってしまいましたよ」
 すると、忍び笑いをもらしながら小君が几帳の内より出てきた。皆、あれもこれもしてはダメと言うんだもの。そう言った小君に、簀子に座ったまま暁の宮は苦笑した。
「当たり前でしょう。もし春宮さまにお怪我でもあれば、皆の首が飛びますよ」
「それでは内裏と変わらぬ」
 几帳の奥にいた春宮が、そっと暁の宮を覗いて答えた。やはり父上にそっくりだ。微笑んだ所が特に似ている。ジッとその顔付きを眺めると、春宮は小君にすまないが二人にしてくれないかと頼んだ。
「ええ、私とお相撲を取る約束ですよ」
「後で必ず遊んであげるから」
 春宮が言うと、小君はブツブツと文句を言いながら簀子へ出ていった。その足音が聞こえなくなると、春宮は几帳の影からそっと尋ねた。
「そなた、ずっとここに住んでおるのか」
「はい…あ、いいえ、ここへ移る前は大和におりました」
「大和? なぜそのような所に」
「祖父が面倒を見てくれておりましたので」
「…祖父上はいかがした」
「亡くなりました」
 暁の宮が答えると、そう…と呟いて春宮は視線を伏せた。年は。春宮がもう一度尋ねると、暁の宮はおかしそうに答えた。
「あなたさまより一つ上かと」
「私の年を知っているのか」
 少し几帳から顔を出して春宮が驚いたような声を上げると、暁の宮は笑い出した。ひとしきり笑って、真っ赤になった春宮を目を細めて眺める。
「あなたさまのことを知らぬものは、この都にはおりますまい。春宮さま、こちらへおいでになりませんか。せっかくよい天気なのですから」
 暁の宮が言った。その頬は外から差し込む日差しが当たって、暖かそうな色をしていた。おずおずと几帳の奥から姿を見せると、春宮はひょこりひょこりと足をかばいながら歩き、暁の宮の隣に座った。おみ足をいかがされました。暁の宮が尋ねると、春宮は内裏で怪我をと答えた。
「大事ない。少し痛むだけだ」
「見て差し上げましょう。衣を変えねば」
 さっき庭を裸足で歩いたせいで、春宮の足の裏に巻いた衣は土で汚れていた。お相撲は無理ですよ。そう言った暁の宮の涼しげな顔が急に憎らしくなって、春宮は怪我をした方の足をぬっと暁の宮の前に差し出した。
「そなたに分かるのか」
 意地悪そうに春宮が尋ねると、暁の宮はよいか悪いかぐらいは分かりましょうと答えて、そのきゅっと締まった足首をつかんだ。その手の温かさにドキンとして、春宮は思わず目を伏せた。するすると器用に布を外していく暁の宮の手は、指先までもが主上にそっくりで、父上のお若い頃はこのような容姿だったのかもしれんとぼんやり考えながら、春宮は暁の宮を眺めた。
 兄宮。
 それ以外に考えられぬ。主上が身分の低い姫に生ませたか…それとも。考えて、春宮は顔を上げた。遠い記憶が、頭の中をかすめた。立ち上がって新しい白い衣を持ってきた暁の宮を見上げて、春宮は呟いた。
「弘徽殿の皇子…」
 春宮の声に、暁の宮は黙ったまま頷いた。

 
(c)渡辺キリ