大祓
 

 弘徽殿には以前、美しい女御がいたのだと聞いたことがあった。
 その噂を耳にしたのは一度きりで、そこに宮がいたとも聞いたけれど、まだ幼かった春宮はそのことを心に留めずそのまま忘れてしまった。
 私が忘れようと覚えていようと、弘徽殿の皇子が消えてなくなる訳ではないのだ。
「お呼びと伺いましたが」
 夜具の上に座ってあぐらを組んだ春宮が視線を向けると、妻戸から入ってきて平伏した三条の大臣がいかがいたしましたかと尋ねた。春宮が手を鳴らすと、そこに控えていた女房は静かに下がっていった。
「面を上げよ」
 春宮が声をかけると、三条の大臣は頭を上げ、そこにあぐらを組み直した。単衣を着て袿を羽織った春宮は、強張った顔つきで開いた襖の向こうにいる三条の大臣を見つめた。
「私をこの邸へ連れてきたことには、理由があるだろう」
 春宮の問いに、妻戸の前に座ったままだった三条の大臣は、局にいる女房たちに憚り、失礼つかまつると言って母屋に入った。夜具のそばで再び深く平伏すると、顔を上げて三条の大臣は春宮をまっすぐに見つめた。
「小君も今年で十歳となりまする。明くる年より殿上童として参内させ、十二の年には元服させようと思っております。その時、あなたさまの覚えめでたければ、禁中でも安心できるだろうという愚かな親心でございます」
「そなた、いつの間にそのように裏腹が上手くなったのだ。よい、もう下がれ」
 ため息をつくと、春宮は脇息にもたれた。慇懃に頭を下げると、三条の大臣は立ち上がって口を開いた。
「春や昔の春ならぬ…」
「そなたが業平とは、似合わぬことだ」
「私ではございませぬ。あなたさまと…明けぬ日の宮さまのこと。私とて人の親、信じとうございます」
「何を」
 春宮の問いには答えず、三条の大臣はいつものように柔和な笑みを浮かべ、お休みなさいませと頭を下げた。待て。襖を開けて出て行こうとした三条の大臣を呼び止めると、春宮は強い口調で言った。
「気が騒いで眠れぬ。西におられる宮に、碁の相手をお願いしたいのだが」
「…あなたさまの望みとあらば」
 そう答えて、三条の大臣は音もなくするりと外へ出ていった。やっぱりだ。息をついて手に持っていた蝙蝠を放り出すと、春宮は脇息にもたれて女房を呼んだ。
「お呼びでございますか」
 局に下がっていた女房が襖の間から声をかけた。碁盤を出してくれ。そう頼むと、春宮は肩の力を抜いた。
 うろたえも拒みもせぬ。それどころか、私が呼べと言うだけで応じるとは。
 やはりこの邸へ私を連れてきたのは、暁の宮に会わせるためだったのだ。でも、なぜ…。碁盤を夜具のそばに置いた女房たちに下がれと言うと、春宮は脇息にもたれたまま目を伏せた。
 ここに暁の宮がいると、私に知らせていかがする。
 私から父上に、あれは私の兄上かと問わせるつもりか。
「春宮さま、西より一の宮さまをお連れいたしました」
 小さな声が聞こえた。西の対の暁の宮付きの女房が、緊張で声も震えがちにそう言って妻戸の内に平伏した。そなたも下がってくれ。春宮が言うと、女房は少しホッとしたように下がっていった。
「お呼びと伺いましたが」
 涼しげな二藍の直衣に烏帽子をかぶった暁の宮を見上げ、春宮は黙ったまま母屋にしつらえてあった円座を指差した。暁の宮がそこにあぐらを組むと、灯籠の明かりが揺らめいてそのすっきりとした頬を照らした。
 こうしていると、幼い頃を思い出す。
 夜、どの妃も召さず、父上は私を膝の上に乗せて、昔見たという春の精の話をしてくれたことがあった。篝火を焚いた庭の高台で、鳥の衣を着た春の精がまるで衣が風に揺れるかのように軽く、美しく舞っていた。笑う様は息をのむほど愛らしく、まだ高い声で話す様は鳥がさえずるがごとく耳に心地よかったのだと。
 呼べばいつでもはいと答えて、駆け寄ってきてくれた…あの頃が懐かしいと。
 そなたの顔はその春の精によく似ているが、ご気性は母上にそっくりだな。ふふっと笑って主上はいつも私の頭をなでた。黙っていればあの庭に降りた春の精かと思うほどだが、話せばやはり別人だといつも仰っていた。
 私は…父上の春の精になりたかった。
 未だに夢見るような目で話す…その人になりたかった。
「…春宮さま?」
 碁石を並べた暁の宮に、春宮は手を伸ばしてその首筋に抱きついた。袿の袖に払われて、碁石が床に落ちてバラバラと音を立てた。暁の宮が息をのんだ。春宮を支えて片手を後ろにつくと、震えている春宮の背の衣をつかんで暁の宮は尋ねた。
「春宮さま…どうなされました」
「…足を打った」
 暁の宮の胸にしがみついて、春宮はくうーっと声を上げた。重い碁盤の角で打った足の指が、みるみるうちに赤くなった。一瞬、言葉を失って、それから暁の宮は笑い出した。人が苦しんでいるのに。涙を目尻に浮かべて春宮がにらむと、暁の宮は手を離して身を屈めた。
「っ!」
 元から怪我をしている方とは違う、碁盤で打った方の足をつかむと、それを高く上げて暁の宮は小指をゆっくりとなでさすった。わっと声を上げて春宮が夜具の上に転ぶと、大したことはありませんよと言って暁の宮は笑った。その笑みは、見慣れた父の寂しげな笑顔とは少し違った。そうか。その笑顔を眺めると、春宮は足で暁の宮の胸を踏んだ。
 どんなに似ていようと、代わりになどなれぬ。
 呼ばれるたびに、何度はいと素直に答えて駆け寄って行こうとも、父上が私を春宮以外の名で呼ぶことはなかったように。
 ふいに涙がつっと頬を滑り落ちた。慌てて目を腕で隠して顔を背けると、春宮はそっと立ち去ろうとした暁の宮に気づいて、そばにいてくれと頼んだ。
 乞われるがままに書物で読んだ昔語りを、枕元に座ったまま暁の宮はゆっくりと話した。袿姿に烏帽子をかぶったまま、春宮は暁の宮の直衣の裾をつかみ、ジッとその低い声を心地よさそうに聞いていた。春宮がその大きな目を閉じて安らかな寝息をたてる頃には、明け烏の声が聞こえ始めていた。

 
(c)渡辺キリ